ひのまどか「戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実」

新潮社

2014年刊




 ひのまどかさんの新作。

 楽しみにしていたので、やっと手にすることができました。


 
 第二次世界大戦の真っただ中の1941年8月30日、

 ソビエトへ突如侵攻したナチス・ドイツが行った「レニングラード900日封鎖」。


 当時、レニングラードの人口は200万人強。

 封鎖が完成するまでに、50万人余が疎開。

 残った人々への配給は、毎月減っていき、

 空襲や戦闘だけでなく、餓死者を含めて、

 戦後、ソ連の公式発表では、死者63万との発表された。

 でも、実際には、120~130万人に達したと市民には思われている。

 1942年の1月から2月にかけて、人肉食は最高潮に達し、

 街では、人肉がマトンとして売られ、日常的に、誘拐事件が起こり、人肉になった。

 この冬、凄まじい寒さと飢餓に加えて、狂気が町を覆っていた。


 『大砲が鳴る時、ミューズは黙る』


 こんな戦時下で、音楽ではとんでもない、という雰囲気だった。

 しかし、

 明日ににも、レニングラードは陥落すると世界に喧伝するナチスのプロパガンダに対抗するのに

 最も有効だったのは、この包囲下のレニングラードで、コンサートが行われ、

 ラジオで世界中に放送される、という事実だった。


 1942年8月9日、ショスタコーヴィチの『交響曲第七番』が、

 レニングラードで初演された。

 ナチスの包囲、345目の出来事だった。
 




<目次>
プロローグ 砲弾に貫かれた楽譜
第1章 異次元の世界に放り込まれた音楽家たち
第2章 お返しのプロパガンダ
第3章 死の時を刻むメトロノーム
第4章 新生ラジオ・シンフォニー
第5章 『交響曲第七番』レニングラード初演
エピローグ―しかし、ミューズは黙らなかった
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チャイコフスキー―クリンへ帰る旅びと (作曲家の物語シリーズ (1))

ひのまどか「チャイコフスキー―クリンへ帰る旅びと」(作曲家の物語シリーズ)

1989年刊

リブリオ出版




≪チャイコフスキーは多くの場合、初演に関しては不運つづきでした。

 かれの音楽の方がすすみすぎており、
 
 演奏家や聴衆が、これに追いついていけなかったのです。≫





チャイコフスキーの心境・・

≪創作にかかわる苦労など、人にいってもはじまらない。

 いかに苦労して書こうが、いかに楽に書こうが、

 人からはその結果しか見えない。

 結果だけがすべてだ。≫




チャイコフスキーの心境、好調な時・・

≪わたしの場合は、インスピレーションの不足になげくということはまったくありません。

 しあわせなことに、いつも音楽の方からわたしをたずねてきてくれるのです。

 わたしはただ、それを書きとればいいのです。≫




旅好きだったチャイコフスキーですが、

晩年、クリンの田舎に引きこもって、膨大な数の仕事をこなしました。








ひのまどか「ビゼー―劇場に命をかけた男」(作曲家の物語シリーズ)

リブリオ出版

2007年刊





 扁桃腺炎になって3日目・・

 抗生物質で抑えているものの、喉の痛みと、熱が続いています。

 年に1度、扁桃腺炎になる度に、

 抗生物質がなければ、永遠に治らないのではないか、と思っています。




 ところで、
 
 ビゼーの人生にとっても、扁桃腺炎は、一生ついてまわった持病でした。

 パリコミューン前後のフランスに、抗生物質はなく、

 いったん扁桃腺炎にかかると、2~3週間寝込まざるをえませんでした。

 物を飲み込むこともできない日々が何日も続き、病気が治る頃には、

 体重な何キロも減っていた、といいます。

 当時、瀉血が流行っていて、12匹のヒルを喉に吸い付かせるなんてことも

 したようですが、全く効果はありませんでした。



 今日では、不朽の名作「アルルの女」「カルメン」も、

 初演の評価は散々でした。

 批評家たちを買収することや、コネを嫌ったビゼーにとって、

 オペラの作曲家として、様々な陰謀や悪意に打ち克つための強靭な精神と

 忍耐力が必要でした。



 オペラの作曲そのものも、一日15~16時間の作曲の連続に、

 直前は3日連続の徹夜など、体力をつかうものでした。

 900ページから1200ページのスコアを仕上げても、

 劇場との交渉が上手くいかなければ、いつまでたっても上演されず、

 舞台装置や衣装に費用をかけてもらえず、

 満足のいく歌手たちが雇えず・・の苦難の日々。


 
 ようやく「カルメン」が認めらた矢先、

 リューマチか心臓発作か不明ですが、36歳で亡くなります。


 ビゼーの訃報には、批評家たちの手のひらを返した、

 劇賞の記事があふれたといいます。






<目次>
1 巨匠たちの夜会
2 青春のローマ
3 オペラ・デビュー
4 セーヌ川のほとりで
5 結婚の条件
6 内に心配、外に恐怖
7 「アルルの女」
8 「カルメン」への道のり
9 「カルメン」
10 三ヶ月後
そして、いま



ひのまどか「スメタナ―音楽はチェコ人の命!」(作曲家の物語シリーズ)

リブリオ出版

2004年刊




 スメタナの母国、チェコも、
 
 偉大な作曲家を生んだハンガリー、ポーランド、フィンランドと同じく、
 
 苦難の歴史を歩んできた。
 
 オーストリア・ハプスブルク帝国の領土となり、
 
 チェコ人たちは政治・宗教・言論の自由を奪われて、
 
 ドイツ語とカトリック教を強要される。
 
 それに反対したボヘミア貴族は、殺されるか、国外追放となった。
 
 チェコ語と、チェコ人の文化は、貧しい民衆や、職人や、農民の間にしか残らなかった。

 
 「チェコ人にとって、音楽は命」だった。



 チェコの音楽を復活させた、スメタナ。
 

スメタナの人生は・・大器晩成型。

42歳にして、ようやく作曲と指揮で食べていける見通しがついた。

それまでは、望んでいた音楽監督のポジションも、作曲したオペラが上演される機会も

得られず、十分の収入もなかった。


 あまりにいびり倒されたため、耳が聞こえなくなり、
 
 精神に異常をきたす最期は、無念でした。




<目次>
1 プルゼニュの人気者
2 音楽生活のスタート
3 スメタナ音楽塾
4 悲しみの曲
5 異国での成功
6 仮劇場をめぐるドラマ
7 『売られた花嫁』
8 闘いの果て
9 『わが祖国』
10 悲しみのヤプケニツェ村
そして、いま
シベリウス―アイノラ荘の音楽大使 (作曲家の物語シリーズ)


ひのまどか「シベリウス―アイノラ荘の音楽大使」(作曲家の物語シリーズ)

リブリオ出版

1994年刊



 フィンランドは、ロシアの一自治国家であり、また、スウェーデンの属国であった。
 
 
 近代になり、フィンランドが独立にあたっての精神的なよりどころとなったのは、
 
 「カレワラ」であり、
 
 それを音楽的に表現した「フィンランディア」であった。




 ジャン・シベリウスの作曲スタイル・・
 
≪頭の中にはすでに五十以上のメロディーがなり響いていたが、

 彼は、それが完全な形になるまで書き留めなかった。
 
 - 推敲に推敲を重ねよう。ベートーヴェンは、そうした。≫

 ジャンの作曲の先生だった、ゴルトマルクは、こうアドバイスしていた。
 
≪君は現状にあまんじることなく、より簡潔なスタイルで書くことを目ざしたまえ。

 頭に浮かんだアイデアを、より内的性格を持つまで推敲したまえ。
 
 ベートーヴェンは五十回も作り直した。≫



 晩年、ジャンは、喉頭がんになります。
 
 ニコ中とアル中気味だった彼に、禁酒禁煙が言い渡されます。
 
 その代わりに課せられたのが、
 
 日記でした。
 
 ・・ゆううつなこと、不満に思うこと、作曲進み具合、
 
 病の再発への不安、悪化する経済状態などなど・・がすべて書き綴られた。
 
 
 
 フィンランドに行く機会があれば、
 
 ぜひ「カレワラ」の地、カレリア地方に行ってみたいですね。

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