西堀栄三郎「石橋を叩けば渡れない」

生産性出版

1999年刊





≪私は、若いころから、人間というものは経験を積むために生まれてきたのだ、

 という幼稚な人生観を持っています。

 だから、どんなつらいことであっても、それが自分の経験になると思ったら、

 貪欲にやってみるのです。

 どんなに人のいやがることでも、この考え方でいけば率先してやれるのです。≫



 
 南極へ行く前、最初の年から越冬することに反対する学術会議の先生方に行った言葉・・


「物事には、最初というものが必ずいっぺんはあります。

 その最初をやらなかったら、二度目はないのです。

 最初のないものというものはない、だから、それを私たちはやろうと考えているのです。

 私たちはじゅうぶんの自信を持ってやります。

 準備その他についても万全を期しています」



 越冬中に怖かったこと・・

≪私は、いろんなことに出会いましたが、こわいと思ったことはありません。

 それでも何がこわいか、と無理にいうなら、まあ人間が一番こわい。

 しかし南極では私たちだけなんですからこわい人間はいない。

 そこで強いて何がこわいかと聞かれるなら、未知がこわい、と答えることになります。

 何もわからんということが一番こわい。≫

 しかし、そんな南極でも、一年間暮らしてみると、

 もう全部といっていいほど、いろんなことがわかる。



 未知をいかにマネージするか?

≪最初と二度目とは、非常にちがいます。

 初めての南極は、未知の世界でした。

 未知には恐怖がつきまとい、それは探検する心につながります。≫

≪何か新しいことをするときに、まずそれを、やるかやらないかを決めることが

 必要になってきます。

 その場合、まず事前にあらゆる角度からよく調査し、それからやるかやらないか決めよう、

 というやり方をすることがあります。

 また、うまくいかずにしくじったり、あるいは何か具合が悪いことが起こったりすると、

 決心する前の調査が不十分だったからだといわれる。


 新しいことはリスク(危険)があるに決まっています。

 リスクというのは、危険ということだけではなくて、うまくいかないというリスク、

 不成功というリスクも入っています。

 危険ももちろんあり得ると思います。

 そこで、やるかやらないかを決心する前に十分調査しておかないからリスクがあるんだ、

 あるいは失敗があるんだ、とこういう考え方です。


 しかし私は、そんな考え方ではとうてい新しいことはできないと思います。≫


≪やるかやらないかという決心は、調査などで決まるものではない。

 もっとほかから決められていることが多いのです。≫


 南極観測では、いかにボロ船であったとしても、「宗谷」で行くことは事前に決められていた。


≪「やる」ということを決心してからの調査というものは、

 やる決心をする前の調査とは全然ちがいます。


 これは、やるという前提のもとにする調査です。

 もうすでにやると決めているのですから、どうすればリスクが減らせるかということに

 集中した調査になって、これは非常に大事です。≫


 しかし、どんなに調査し、準備計画を綿密に立てたとしても、

 完全な準備というものは絶対にできない。

≪なぜかというと、これからやることは、知らない新しいことですから、

 必ず思いもよらないことが起こるに決まっています。≫

≪ところが、準備とか計画というものは、

 思いよっているものしかできはしないのです。

 したがって、思いもよらないことに対する処置というのはあらかじめできていない。

 こわいのは、それが完全無欠であると思っている心です。≫  


≪計画を実行に移してから、思いもよらないことが出てきたとき、

 いったいどうしたらいいのか。

 それは何でもない、ただひとつ、臨機応変の処置をとるほかはないのです。≫

≪そうするためにはどうしたらいいのかというと、

 すべての人間は沈着でないといけないわけです。

 沈着になれるということは、あわてふためかないということです。

 あわてふあめかないということが沈着ということです。

 心が平静だと、ちゃんといい処置ができます。

 人間、心が平静でありさえすれば、どうすればいいかということが自動的に心に

 浮かんで来るものです。

 逆にいえば、浮かんでこないということは、心のどこかであわてふためいているからです。


 それでは、あわてふためかないようにするには、どういうことが必要かというと、

 「思いもよらないことが必ず起こるぞ」ということを、覚悟していることです。

 その覚悟はどこから来るかというと、

 「準備というものは必ず不完全なものなり」と思っていることです。≫

 ・・ゆめゆめ油断めされるな。





<目次>
石橋を叩けば渡れない
(若いころの夢はいつか実現する
人間は経験をつむために生まれてきたんや
「ああ そらよかったなあ」
子供がおもちゃで遊ぶようなもの ほか)
五分の虫にも一寸の魂(抄)
(「我輩氏」
自主主義のすすめ
幅役
種をまく、育てる ほか)
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西堀栄三郎「創造力―自然と技術の視点から」その2

講談社

1990年刊





知ることと、役に立つこと。

≪知識というものは、それ自身では何の役にも立たない。

 物、方法、あるいはシステムになって、初めて価値が生まれるのだ。≫




≪「技術」は「知識」を「目的」に結びつけるものであり、

 知識には何の罪もないが技術には技術を行う人の思想が関わってくる≫

≪・・人間の知的行動に価値を生ませるもの一切を「技術」といい、

 それに携わる人々すべてを「技術者」といいたいのである。≫


≪技術者になるからには幅広い知識を身につけなければならない。

 しかもそれは生きた知識であることが大切だ。

 そう考えて私は、ありとあらゆる場所にでかけて行って体験を積むことに努力した。≫





 理論と現実の差・・


 理論というのは、「線」であり、

 現実は、「点」で表される。


 物事というのは、ニュートン力学のように線形に並ばず、

 現実は、バラバラな点の集合になっている。

 その現実を、統計的品質管理の手法を用いて

 数量的に測定し、経験を加味して整理し、プロセスを改善し、

 バラつきをなくしていく。

 サンプルは、一か所からではなく、二か所も三か所も違う場所からとるようにする。




 どうすればもっと楽しく作業ができ、しかも能率が上げられるか?

≪それには作業員に自分の仕事への愛着をもたせることだと思った。

 仕事への愛着が深まれば深まるほど仕事への意欲がわく。

 意欲は自分の仕事を考えるきっかけを作り、どうしたらうまくいくか、

 どうしたらもっと向上するかを自分で考えることになる。≫

 ・・それには、「完成」の喜びを味わわせることが一番だった。


≪仕事というものは自らが強い「やる気」をもってやるのでなければ、

 「細心の注意で」など決してできるものではない。≫



≪人間の能力は伸ばそうと思えばいくらでも伸びるものである。

 ・・

 変えられないのは人間の個性で、能力というのはいくらでも伸ばすことができる。≫
 

「情熱のないところに執念はなく、また、意欲のないところに情熱もない」


 そのためには、「調子に乗せる」ことが必要となる。




○技士道

武士道、騎士道に対応して、技術者としてのあるべき姿、行動規範、綱領を示す。


一 技術に携わる者は、「大自然」の法則に背いては何もできないことを認識する。

二 技術に携わる者は、感謝して自然の恵みを受ける。

三 技術に携わる者は、論理的、唯物論的になりやすい傾向を持つ。
 したがって、特に精神的に向上するよう精進する。

四 技術に携わる者は、技術の結果が未来社会、および子々孫々にいかに影響を及ぼすのか、
 公害、安全、資源などから洞察、予見する任務を負う。

五 技術に携わる者は、企業の発展において技術がいかに大切であるかを認識し、
 経済への影響を考える。

六 技術に携わる者は、常に顧客指向であらねばならない。

七 技術に携わる者は、人倫に背く目的には毅然とした態度で臨み、
 いかなることがあっても屈してはならない。

八 技術に携わる者は、互いに「良心」の養育に努める。

九 技術に携わる者は、創造性、とくに独創性を尊び、科学・技術の全分野に注目する。

十 技術に携わる者は、勇気をもち、常に新しい技術の開発に精進する。

十一 技術に携わる者は、強い「仕事愛」をもって、常に精進する。
 骨惜しみ、取り越し苦労を戒め、困難を克服することを喜びとする。  

十二 技術に携わる者は、常に注意深く、微かな異変、差異をも見逃さない。

十三 技術に携わる者は、責任転嫁を許さない。

十四  技術に携わる者は常に楽観的で、「禍い転じて福と為す」の諺のように失敗を恐れず、
 それを成功にもっていく術を身につけねばならない。

十五 技術に携わる者は何事をなすにも「仁」の精神で、他の技術に携わる者を尊重して、
 相互援助の実をあげる。

西堀栄三郎「創造力―自然と技術の視点から」

講談社

1990年刊



 この本、実は新入社員の時、買って一読したことがあったのですが、

 その当時は、「ふ~ん」で終わっていました。

 今回再読し、100余りの付箋をあっという間に使い切ってしまいました。

 どの文章も、モノづくりや品質保証の基本、真髄だと思います。



 現場主義・・

≪現場と取り得るあらゆる情報、それが定性的であれ、定量的であれ、

 これらをひとつ事実として虚心坦懐に受け入れ、その中に含まれている

 ひとつひとつの真実を、雑音から切り離して実情をさぐり、その解決方法を考え出す

 という、いわゆる観察を重視する方法であった。≫
 
≪しかし、それにもまして、それらを実行していく上で大切なことは、

 作業員の心理状態が問題だあるということに気がついた。

 作業員はロボットではない。

 りっぱな人格をもった人間である。

 探求心も持っているし、大抵は創意工夫も豊かである。

 そして何よりもつねに現実の事象に数多く接しているという強みをもっている。≫

 こうした人たちに、人間としての正しい意欲を満足させてやれるような社会的環境作りが

 求められている。





≪私の思想の中心に、「人間は経験を積むために生まれてきた」という哲学がある。≫

 越えてきた困難やストレスは、その人にとっての貴重な財産である。

≪そうして、経験を少しずつ積むことによって能力が上がっていく。

 そして、その能力はさらに大きな自信をうむ。≫



≪新しいことをやるとき必要なのは万全の準備であるが、これが絶対のものでないとしたら、

 次に必要なのは事が起こったときの臨機応変の処置である。

 リスクが拡大することを防ぎ、またそれを最小限に押える臨機応変の処置が必要なのだ。


 それができるためには心が平静でなければならない。

 心が平静であれば、そのときどうすれば良いか、自然に良い知恵が浮かんでくるものである。

 あわてふためいた状態では知恵も浮かばず、臨機応変の処置など絶対にとれないのだ。


 では、どうすれば平静でいられるか。

 それは「何か思いもしないことが必ず起こるぞ」と覚悟しておくことである。

 覚悟していば、事が起こっても、「あ、出てきたなあ」と思い、あわてふためくことなく

 臨機応変の処置がとれるのだ。≫




<目次>
第1章 自然こそわが教師(自然に学ぶ
私の自然観
未知の大陸
体験から学ぶ)
第2章 技術を考える(科学と技術
技術の功罪
技術のあるべき姿
技術との出会い)
第3章 品質管理とは何か(事実からの出発
品質管理とは
統計的品質管理の方法
日本的品質管理)
第4章 どうしたら人は活かせるか(組織と個人の役割
組織を運営する
チームワーク論
リーダーシップとは何か)
第5章 人間性と創造性(創造の現場
創造の芽を伸ばす
研究開発の進め方
進歩を導く創造性)
第6章 人類の進むべき道(再び技術を考える
企業のあり方、技術者のあり方
21世紀に向けて)
百の論より一つの証拠―現場研究術
西堀栄三郎「百の論より一つの証拠―現場研究術」

日本規格協会

1985年刊




 問題解決にあたっては、まず観察すること、現状を十分に認識してからとりかかることが必要である。


 西堀さんの原体験・・

 西堀さんの実家はちりめん問屋をやっていたが、丹後地方の娘さんが自宅でちりめんを織っていた。

 当時、丹後に大地震があった。娘さんたちの家は倒壊する中、手織機だけは大切に避難させていた。

 慰問に訪れると、住むところもない中、「仕事がしたい」「織る仕事がしたい」と異口同音に言った。

 そこで、兄が、欧米帰りで、近代的な織物工場を経営していたので、「能率が落ちる」と嫌がっていたのを、

 非常時ということで、100人余りの娘さんを兄の工場に連れて行った。

 工場を2つに分けて、前からいる人たちの組と、新しく来た人たちの組にして、昼夜二交代で織らせることにした。

 当初、技術を習得するには、半年か1年はかかると思われていた。

 ところが、1週間たつと、新しい娘さんたちは、前からいた人と同じ量の、しかもいい仕事をするようになり、
 
 1か月後には完全に追い越してしまった。

 原因はすぐにわかった。

 彼女たちには、同じ境遇の者という「一体感」があり、早く仕事を覚えないといけない気持ちがあり、

 そのため、毎晩、自主的に講習会を開いて勉強していた。
 
 自動織機を扱ったことのある娘さんが先生役になり、どうすれば糸が切れないで織れるか、

 織りムラができないか、研究を重ねていた。

 また、昼間は、機械に詳しい娘さんが、工場をまわって歩き、できない人にいろいろ教え、

 検査をする人は、不良品を見つけると、織った人のところへ飛んでいって注意を促した。

 古い人は、織る人と検査をする人は全く別の存在であり、自分の仕事以外には関心がなかった。

 一方、新しい娘さんたちは、「上手に織れないのは私たちみんなの責任」という気持ちがあり、

 みんなが一致協力して、いい物を速く織るように心がけていた。

 能率という言葉はしらなったかもしれませんが、品質保証活動の原点がここにあります。




 また、『想像力』においても、

 当時は、品質保証において、「アメリカ流に」というやり方がよくされたことに対して、

 いくら組織的な品質保証システムがあるといっても、

「・・そこに、働く人たちの魂が込められていなければ、それは製品のどこかに必ず表れるはずだ。

 現に戦時中、私の家に落ちた焼夷弾はぜんぶ不発弾だったではないか。」



 
≪工場の中に入って感じたことは、実際に物を作っている人、

 すなわち作業員たちの心理をいかに大事に考えなければいけないかということである。≫



≪人間は一体何をもって意欲的になるかと考えた場合、

 私は日本人の場合は特に「恥と誇り」の意識が根底にあって、

 それが人間の行動を左右する大きな要素のひとつになっているのだと思う。

 敗けると恥ずかしいから恥ずかしくないように努力する。≫

 実績を発表し、他のラインとの競走だけでなく、

 自分の過去の実績との競走した。


 
≪チームワークで大切なことは、物事とものは決して平均値だけではないということを

 肝に銘じて、自分の流儀を他人に押しつけないことである。≫ 

 人は長所でつきあうよう心がけること。



 科学的管理法とは、すべて事実に基づいた客観的管理であるから、

 統計的思想を持って把握することになる。

 統計的方法は、事実をつかみ、それに基づいて判断する。

 事実を表すデータに語らせることがもっとも強い説得力がある。


≪私が昔も今も、現場に行くと必ず問題が山積している。

 とくに毎日同じようにやっているにかかわらず生産量が上がったり、

 下がったり品質が良くなったり悪くなったり、収率が多くなったり少なかったりする

 とか話をしばしば聞くわけである。≫

 現場は、「宝の山」のようなものである。

 よく観察すれば、必ずその原因がわかり、思いもよらぬ大きな改善の余地がある。





西堀栄三郎「南極越冬記」(岩波新書 青版)

1958年刊



 『プロジェクトX 挑戦者「運命の船『宗谷』発進」南極観測 日本人が集結した880日』の

 DVDを見て以来、西堀栄三郎さんの本のマイブーム中です(^-^;

 




 昭和32年1月から翌年3月まで、第一次南極越冬隊の隊長として、

10人の隊員とともにオングル島の昭和基地で越冬した西堀さん自身の

記録メモによるもの。

 初めてのことに対して、何をどのようにとり組めばよいか。
 
 その心構えや、未知な場面での創造性の発揮など、60年余り経った今でも、

参考になります。いえ、その発想法、思考法、マインドの本質は、

何も変わっていないと思います。



≪最初というのは本当に何が起こるか分からない。それが怖いのである。

 いくら他の外国隊の記録を読んで知っているつもりになっていても、

 それは所詮、よそさまの記録である。

 越冬する場所も違えば気候も違う。参考になっても十分とはいえない。≫『創造力』




 南極に初めて行き、そこで1年間を越冬するために、

 必要十分な装備とはいかなるものか?

 1年経って「宗谷」が万一これらなかったことを想定し、

 2年分乗り切るため、6割増しの装備にした。

 燃料は、ドラム缶400本を用意した。


 しかしながら、

 基地に運べたのは、200本のみ。

 残りの燃料、食糧、機材は、氷山デポという「宗谷」の碇泊地に置いておくしか

なかった。

 ところが、宗谷から荷卸しする最中に、一冬氷と多冬氷が分離ししたため、

分離した氷の上においていた犬の食糧が流されてしまうというアクシデントが発生します。

 のっけから、犬の食糧として、アザラシの肉で代替するため、アザラシを捕獲する

必要がでてきます。これがもし人間用の食糧だったら、ぞっとします。

が、この時の11名は、そうなったら、氷点下40度の中を、アザラシの肉だけでも

やっていく覚悟ができていた、といいます。

 実際、大事にはいたらなかったようですが、この南極越冬に先立って、

他の国にヒアリングしたところ、冷蔵庫・冷凍庫が必要であるとアドバイスされていました。

ところが、船のキャパシティの関係もあり、最終的に冷蔵庫・冷凍庫を積み込みませんでした。

また、南極には雪も氷もふんだんにあるだろう、そこで雪のかまくらのようなものを作ればよいので、

扉だけ持っていけばよい、と考えていました。

でも、南極には、かまくらが作れるようなやわらかい雪も氷はありません。

日陰においておこうとしても、360度、日光の下であり、氷河の裂け目を見つけるまでに

腐らしてしまいました。



 犬ぞりの訓練は、北海道で十分にやってきたはずでしたが、

長い航海の中で、犬たちはその訓練をすっかり忘れてしまい、また、

そもそも大氷原を走る訓練は、はじめから受けていなかったため、一からやり直しになる。

また、実際に走ってみると、露岩に足をぶつけて、犬の足は血まみれになり、

犬の足に絆創膏をはり、手袋をはかせたがすぐに取れて困った。



 基地において、発電機を動かすため、ドラム缶から石油を運んでくる必要があったが、

近い場所になるドラム缶から使っていくので、どんどん取りに行くのが大変になった。

ドラム缶はとても重いため、パイプを作って流すことができれば便利という話になった。

ところが、パイプそのものもパイプの代わりになる材料がない。

氷でパイプを作ったらというアイデアも出たが、単なる氷だと途中でポキっと折れてしまうかもしれない。

皆が諦めかけた頃、氷に線維か何かが入れば強度が増して大丈夫かもしれないというアイデアが出る。

すると、ケガのために日本から大量に持ってきていた包帯を使える、ということになり、

一本だけあった短い真鍮のパイプのまわりに、包帯を巻き、水で濡らすと、繊維と氷がコンバインした

立派なパイプができあがる。このパイプの熱湯を通して、中の真鍮のパイプを抜き取り、

次の包帯パイプを次から次へと作った。そして、作ったパイプとパイプを、零下20数度の外気

で、接着剤代わりのにさらす水をつけると見事につながった。



 西堀さんの口ぐせは、「能率」。隊員から、「能率協会会長」のあだ名をつけられた。

 能率とは、「目的を果たしながら、もっとも要領よく手をぬくこと」

 目的よりも、途中のプロセスに手が込んでいるのを尊重するのは、職人仕事であり、

現代の技術精神とは一致しないと、バッサリでした。



 
 当時、世界中が南極に越冬隊を送り込んでいたのですが、一番大きな違いが年齢でした。

 フランス隊は、隊長が35歳、副隊長が27歳、最低21歳。

 英国隊、ノルウェー隊も同様。

 一方、日本隊は、隊長の西堀さんが54歳、最年少が27歳で、平均37歳。

 他の国と比べても、10歳余、年が嵩んでいる。

 なんだか今の日本の組織と同じ構造が、60年前もあります。


 ところで、最初の越冬隊11名の選出にあたっては、強硬な反対論がありました。

 たった10名程度で南極での越冬ができるか。

 最低でも30名から50名程度が必要ではないか、と学者や役人などからも意見あった。

 一方、冬山を経験済みの西堀さんらは、真逆でした。

 「人数が多ければ安全で、少なければ危険だという命題はまったく成り立たない。」

 山の訓練を受けていない小学生を30人も引き連れて冬の乗鞍岳に登ったら、遭難確実。

 しかし、冬山の熟練者ならば、3名でも遭難することはない。

 10人の根拠は、安全率とマネジメントの観点から行った、といいます。

 数名から、10名程度までは、人が増えることにより安全率が増しますが、

 それを超えると、安全率が下がっていくこと。

 また、一人のリーダが指揮命令できるのは、6、7名が最適で、せいぜい10名まで

 であるため。



 西堀さんが、越冬中、悔しかったのは、観察ための研究機材が不足していたこと。

 オーロラを観察するためのハンド・スペクトルスコープ一つなく、分析することができなかった。

 実は、これらの機材は、日本国内の研究室にはいくらでもあったのだが、

 越冬隊の予算にはなかったため、貸してもらうこともできなかった。

 現場を知っている人が、バックでマネジメントすることの必要性がわかります。




 南極の生活で、何が一番苦しいかと問われれば、

「未知から来る不安」である。

 
 このわからないものに対するアプローチ法として、西堀さんは、

 漸進主義を択ります。

 でも、この漸進主義、ある隊員にはすこぶる評判が悪かった。

「西堀さん、あんたの言われることは、いつでも一つ行くとまた次、 

 一つ行くとまた次、というふうに、だんだん引き伸ばして、計画がしょっちゅう

 変わるのでまったく困ります」

 トータルがわかっていれば逆算することも可能でしょうが、

 そうでない状況下では、仮説-検証をこまめに繰り返す漸進主義の他、取りえないのでは、

と思います。



 こんな風に苦労と工夫を重ねてきた第一次越冬隊の後任は、第二次越冬隊でした。

 が、こちらは、雪道をまったく歩いたことのない研究者がおり、

 10キロ先の基地までヘリコプターの搬送が必要である、とか、

 ましてや、アザラシの肉だけでやっていくなどという気持ちの持ち主は誰もいなかった、といいます。

 第一次越冬隊の成功に気を良くして、南極を甘く見すぎている、と西堀さんご立腹でした(>_<)

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