早稲田から、日本橋浜町へ移動・・

 浜町の駅の真上は、浜町公園。
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 浜町公園から少し歩いた久松町交差点にファミレス「ジョナサン」があります。

 東京都中央区日本橋久松町9
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 その壁面に、賀茂真淵県居の跡のプレートがあります。
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≪古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(かものまぶち)

(1697~1769)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずままろ)

 に入門し、元文2年(1737)江戸に下り、田安宗武(たやすむねたけ)(徳川三卿の一人)

 に迎えられ、和学を講じた。

 隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、県居の翁(あがたいのおきな)と称し、

 「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。

 また歌会なども多くを開き、その作品は今に伝えられている。
 

 あがた居の茅生(ちぶ)の露原かきわけて 月見に来つる都人かも


 実際の旧跡は、この地点の北東約100mのあたりである。≫

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 この道路の奥あたりにあったようですが、
 
 この辺り一帯は、第二次大戦終戦直後の様子は・・
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 「きくの家」さんの建物に掲げれていた写真ですが、
 
 久松小学校等を除いて、一面焼野原・・もちろん県居の家が残っていたあたりも、

すべて焼き払われていました(>_<)


 ・・今度、「きくの家」さんで、和食ダイニングを食べたいと思いました。
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原雅子「賀茂真淵攷」(研究叢書)

和泉書院

2011年刊




「本居宣長と加藤宇万伎」より・・

≪真淵は七十三歳で泉下に入るまで、弟子たちに学問を課題にした書簡を送り続け、

 益々円熟味をみせる。

 真淵の学問への熱情と持久力は枯れることはなかった。≫


≪明和四年(一七六七)十一月十八日、真淵が七十一歳の時宣長に宛てた手紙がある。

 真淵の、学問に真摯に向き合ってきた人ならではの言葉が窺え、

 学問を弟子に託する気持ちが痛いほどにじんでいる内容の書簡である。≫


 「故に古事記の文ぞ大切也。是をよく得て後事々は考え給へ。・・

  己三十歳より今七十一歳まで学事不廃候へども万事はかゆかぬものなるを

  歎候事のみ也。」


 明和六年五月九日付の、真淵から宣長へ宛てた書簡・・

 「先師ハはやく物故、同門ニ無人、羽倉在満ハ才子なから、

  令律官位等から半分之事のみ好候ヘハ相談ニ不全候、

  孤独ニしてかくまても成しかハ今老極、憶事皆失、遅才に成候て遺恨也、

  併かの宇万伎、黒生なとハ御同齢ほとに候ヘハ、向来被仰合て此事成落可被成候、・・」


≪真淵のように学問で極めた人が、学問をやる人間の常としての孤独な心情を訴えた

 書簡であり、心を打たれる手紙である。

 そして、わたくしが心魅かれるのは、真淵が人として宇万伎を信頼し、

 遠隔地にいる同じく信頼した宣長へ、師を通じて弟子の和・輪をはかる

 真淵に感服させられる。≫




「賀茂真淵と本居宣長の学問」より・・

 江戸時代になっても、漢文の『古事記』は、難しくて読むことができなかった。

 真淵は、『古事記』の会読を八回も行い、『仮名書古事記』を著わした。

 しかし、真淵自身、決して満足していなかった。

 最晩年の真淵が、鈴木梁満にあてた手紙・・

「・・神代を伺う事を得んや、よりて己れは四十年願ひて人代を凡につくして

 神代に及へり、

 ことし七十三の齢にて身おとろへ、心しれ行ぬれは、今はせんすべなかれど、

 命の限りとして朝夕つとめ侍るのみ、」


 



<目次>
賀茂真淵の『古今集』注釈―内閣文庫本『續萬葉論』の位置
賀茂真淵の「ますらを」考
賀茂真淵の思想「凌雲の志」
賀茂真淵の心理解釈―『源氏物語』「若紫」の巻をめぐって
賀茂真淵の『枕草子』考―真淵自筆書入れ『枕草子春曙抄』注釈
『萬葉新採百首解』私見―真淵の和歌観をさぐる
新出和歌「賀茂真淵等十二か月和歌」攷
賀茂真淵の弟子高家横瀬貞隆
龍草廬と彦根藩の文化
加藤宇万伎著『種々問答』攷〔ほか〕
賀茂真淵全集 第23巻 県居書簡他
賀茂真淵全集 第23巻 県居書簡他・・本居宣長宛の書簡

賀茂真淵&&賀茂真杜

続群書類従完成会

1992年刊



 明和元(1764)年九月十三日から、明和六(1769)年五月九日までの

 本居宣長宛の書簡、14通を含む、196通に及ぶ真淵の書簡集。


 宣長さんと真淵先生が出会ったのは、

 宝暦13(1763)年5月25日、そして、真淵先生が亡くなったのは、明和6年10月30日。
 
 今回は、宣長さん宛のものだけ読みました(^-^;


 印象的なのは、やはり、宣長を叱責する明和三年九月十六日の手紙でした(>_<)

≪詠歌の事よろしからず候、既にたびたびいへる如く、和歌は巧みなるいやしといふは、

 よき歌の上にても、言よろしく心高く調子を得たるは、少しも巧の無きぞよき也、

 それにむかへては、よき歌といへど、巧みあるはいやしき也、まして風姿にも

 意の雅俗にもかかはらで、只奇言薄切の意をいへるは、総て論にも足らぬ事也、≫


 ・・と、宣長さんの歌を叱責しています。

 真淵先生自身は、

≪古代の歌を見て、一毫も後世を不用して年月を経るままに、自然に古雅我心中に染也、

 其上にて後世を顧ときは、其善悪雲泥の違有、故に誰に問に不及古雅に向へり、≫

 なのに、

≪貴兄はいかで其意をまどひ給ふらんや、

 前の友有ば捨てがたきとの事聞えられ候は、論にも足らぬ事也、≫

≪いはばいまだ万葉其外古書の事は知給はで、異見を立らるるこそ不審なれ、

 か様の御志に候はば向後小子に御問も無用の事也、≫

≪惣て信じ給はぬ気顕はなれば、是までの如く答はすまじき也、

 しか御心得候へ、≫
 
 万葉の心を信じられないの異見を述べ、質問を繰り返すのであれば、以後、

 質問無用、とバッサリでした。

 
 しかし、その後、宣長さんからも誠心誠意謝り、文通は再開します。


 明和四年十一月十八日の真淵からの書簡では、丁寧に『古事記』のこと他の説明がされています。

≪一、万葉再問、委傍書いたし進候、御覧可也候、

 一、古事記之事致承知候、≫




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2008年刊



賀茂真淵・・

≪賀茂真淵は『万葉集』を中心とした古典研究と和歌の世界で活躍し、独自の学問世界を

 作り上げました。

 真淵は、古典研究においては『万葉集』の重要性をまた和歌においては『古今和歌集』以来の

 技巧的な歌風により、古代の素朴でおおらかな万葉調の歌風を尊重しました。

 つまり『万葉集』の自然に帰ることと、天地自然の道である古道の大切さを説いております。≫


≪真淵は『延喜式祝詞解(えんぎしきのりとおかい)』序・付記に、『古事記』と『日本書紀』を

 比べて、次のように述べています。

「古史に引(ひく)に古事記を先とし、日本紀(にほんぎ)を次とす。

 日本紀は・・漢文に泥(どろま)みたれば、上古の事実に違うもの多し。

 ・・古事記は上古質直の国史なり。

 かつ国語を専(もっぱら)としたれば、上古の風を見、古語を知り、古文を察するに及ぶもの

 無(なか)ればなり。」

 当時は『日本書紀』が正史として尊ばれていましたが、真淵がはじめて『古事記』を『日本書紀』

 の上位に置き、学問の最高の対象としました。≫




≪明和元年(1764)7月、真淵68歳の時、

 居を日本橋浜町に移し新居を県居(あがたい)と呼びました。

 「おのれの氏(うじ)は加茂、

  かばねはあがたぬしなれば、

  をる所をあがたゐといふなり。

  あがたとはゐなかの心地。」

 と真淵自身が注釈しているのように、田舎住まいという意味です。

 真淵は繁華な江戸の町中に身を置きながら、心は遠く古里浜松の田舎に馳せ、

 素朴な古代生活を体現しました。≫



<目次>
9 源義家
10 北条時宗
11 楠正成
12 豊臣秀吉
13 山鹿素行
14 荷田春満
15 賀茂真淵
16 間宮林蔵
修身(ことばづかひ
自信
主婦の務
勤労
兄弟
油断するなかれ
日本は神の國
徳行)
唱歌(八幡太郎
茶摘
箱根八里
村祭
われは海の子
夏は来ぬ
紅葉
ふるさと)

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「賀茂真淵翁と山梨稲川先生」より・・


≪国学上における賀茂真淵は非常な大家でありまして、

 この浜松には深い縁故をもった大先生でありますが、

 その学問の方法というものが山川稲川先生の学問の方法と相類似して居る
 
 という関係があるのであります。≫

 真淵が国学でなした方法を、稲川は支那の学問で行った。

 その独創的な方法は、

≪年代から申しますると、賀茂翁の方が前でありまして、翁の全集もすでに出版

 になっておりまするし・・≫

≪それはつまり古典の学問の上に立派な基を開かれたということでありまして、

 古典の研究に言語の研究を基礎とする、すなわち言葉を土台として古典を研究する

 という特別の方法を案出せられたということであります。≫

≪賀茂真淵の学問は学統を荷田春満から受けておりますが、その学問の方法はちがって

 居るのであります。≫

 春満の学問の特色は、制度すなわち律令格式という、支那の制度を復興するのが目的だった。

≪しかるに賀茂翁は独創の見識を以て古典の研究を始められたのであります。

 『日本紀』(『日本書紀』)や『古事記』の研究をするには、どうしても言葉の研究は

 古語の研究に始まらねばならぬというので、それで言葉を研究し始めたのであります。≫

≪賀茂翁もその一生を『万葉集』とか祝詞とかいうものの言葉の研究に費やして、

 古典の研究には手がとどかなかったのでありますが、その目的が古典の研究にあったということは

 明らかであります。

 本居(宣長)翁に至って『古事記』の研究を大成いたしたのは、その志を継いだのでありまして、

 だんだんに発展して今日の国学を成すに至ったのであります。

 これは支那・西洋等に起った近代の学風に符合して居るのであります。≫




<目次>
山崎闇斎の学問とその発展
白石の一遺聞について
大阪の町人学者富永仲基
慈雲尊者の学問について
寛政時代の蔵書家市橋下総守
履軒学の影響
山片蟠桃について
賀茂真淵翁と山梨稲川先生
山梨稲川の学問
附録 解脱上人の出られた家柄―信西入道の一家

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