須賀敦子「地図のない道」

新潮社

1999年刊



 ジャコモ・デベネデッティ『1943年、10月16日』

 Giacomo Debenedetti 16 octobre 1943



 1943年は、ローマがナチの軍隊に占領された年。

 そして、ローマのゲットからユダヤ人が連行された事件が起こったのが、

 10月16日だった。


 ダニエル・デフォー『疫病の年の日誌』・・



 ロンドンのペストを一人称の記録体で書いたもの。

 ≪地味だが、味のある本で、いちど読んだら忘れられない。≫


 デベネデッティの100ページ足らずの小さな本は、

 デフォーの作品に肩を並べるものとして評価されている。


≪デフォーの『疫病』がロンドンの住民すべてを、いわば「差別なく」

 襲った悲劇の歴史であったのに対して、

 ここでは、権力を手にしたひとにぎりの人間が、おなじ人間仲間を

 死に追い詰めていく状況が、切りつめた、格調の高い文体で記されている。

 文章がとぎすまされているだけ、悲劇の大きさが客体化され、

 状況の救いのなさに胸がふさがる。

 究極的にいって、デベネデッティの文章のすばらしさは、

 この迫害の記録が、政治批判のレベルや個人的な創作の基準をこえて、

 まずしいローマのユダヤ人をおそった悪夢のような不幸を悼む、

 無名の人びとの悲しみの合唱となっている事実にあって、

 そのことが読むものに深い余韻を残す。≫



<目次>
地図のない道
(ゲットの広場

島)
ザッテレの河岸で


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須賀敦子「トリエステの坂道」(新潮文庫)



 トリエステ・・

≪ユーゴスラヴィア(クロアチア)の内部に、細い舌のように食い込んだ

 盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置するトリエステは、

 先史時代から中部ヨーロッパと地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所だった。≫



 ウンベルト・サバの愛したトリエステ。

≪重なりあい、うねってつづく旧市街の黒いスレート屋根の上に、

 淡い色の空のひろがり、その向うにアドリア海があった。

 そして、それらすべてを背に、大きな白い花束のようなカモメの群れが、

 まるく輪をえがきながら宙に舞っている。≫

≪たった一日の滞在予定を考えると、日が暮れるまでぜんぶの行程を歩いてみたかった。

 だが、《ぜんぶ》とはいっても、それがサバの詩につながる場所、

 とおぼろげな想念に彩られているだけで、いったいどれだけの距離になるのか

 見当もつかなかった。≫



トリエステ   ウンベルト・サバ 須賀敦子訳

街を、端から端まで、通り抜けた。
それから坂をのぼった。
まず雑踏があり、やがてひっそりして、
低い石垣で終る。
その片すみに、ひとり
腰を下ろす。石垣の終わるところで、
街も終るようだ。

トリエステには、棘のある
美しさがある。たとえば、
酸っぱい、がつがつした少年みたいな、
蒼い目の、花束を贈るには
大きすぎる手の少年、
嫉妬のある
愛みたいな。

この坂道からは、すべての教会が、街路が、
見える。ある道は人が込み合う浜辺につづき、
丘の道もある。もうそこで終りの、石ころだらけの
てっぺんに、家が一軒、しがみついている。
そのまわりの
すべてに、ふしぎな風が吹き荒れる、
ふるさとの風だ。

どこにも活気に満ちた、ぼくの街だが、
悩みばかりで、内気なぼくの人生にも、
小さな、ぼくにぴったりな一隅が、ある。




<目次>
トリエステの坂道
電車道
ヒヤシンスの記憶
雨のなかを走る男たち
キッチンが変った日
ガードのむこう側
マリアの結婚
セレネッラの咲くころ
息子の入隊
重い山仕事のあとみたいに
あたらしい家
ふるえる手
古いハスのタネ

【楽天ブックスならいつでも送料無料】塩一トンの読書 [ 須賀敦子 ]
須賀敦子「塩一トンの読書」 (河出文庫)



 「塩一トンの読書」とは、須賀さんの義母・・イタリア人の旦那さんのお母さんから

言われた言葉に由来する。

 「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」

≪一トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、

 うれしいことや、かなしいことを、いろいろといっしょに経験するという意味なのよ。

 塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのはたいへんな量でしょう。

 それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。

 まあいってみれば、気が遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせない

 ものだって、そんなことをいうのではないかしら。≫


 「塩一トンの読書」とは、

≪一トンの塩を舐めるうちに、ある書物がかけがえのない友人になるのだ。

 そして、すぐれた本ほど、まるで読み手といっしょに成長したのではないかと思えるくらい、

 読み手の受容度が高く、あるいは広くなった分だけ、あたらしい顔でこたえてくれる。≫




<目次>
1(ユルスナールの小さな白い家
翠さんの本
一葉の辛抱 ほか)
2(小説のなかの家族
作品のなかの「ものがたり」と「小説」―谷崎潤一郎『細雪』)
3(『翻訳史のプロムナード』辻由美
『イタリア紀行』ゲーテ
『ニューヨーク散歩―街道をゆく39』司馬遼太郎 ほか)
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高橋源一郎「もっとも危険な読書」

朝日新聞社

2001年刊




 漱石『こころ』のKの正体は誰か?

 ちょっとした謎ときでした。



 ストレス解消の音楽・・は、モーツァルト

 『モーツァルト療法』に、感動されています。

 ・・ところで、当のモーツァルトが病弱だったことへの言及がないのが残念?!


 
 関川夏央を読んで懐かしいのは、

 バブル以前、高度成長以前の風景を描いているから。
 
 そこには、望めばなんでも取り出すことのできる生きている「過去」があるから。




 「日の丸・君が代」・・
 
 幕末の戊辰戦争で、「日の丸」を掲げたのは、幕府で、
 官軍は、「菊花紋章の錦旗」を掲げていた。

 


 司馬遼太郎の「好きな言葉」・・

 「嫌いなのは『正義』であった。
  好きなのは『リアリズム』であった」



 石丸元章『平壌ハイ』 ・・史上最悪の旅!

 長田弘 『本という不思議』

 須賀敦子『遠い朝の本たち』

 椎名誠・写真・文『旅の紙芝居』

 バルザック『人間喜劇』セレクション
 
 野口武彦『江戸のヨブ われらが同時代・幕末』・・鈴木桃野





<目次>
『こころ』の「私」とは誰か?
凡庸な芸術家の温泉めぐり
暗い葦の茂みの向こうから
乙女の祈り、てゆーか
父の死
アウトブリード
東京の妖怪
思想に関するエトセトラ
心に爆弾、唇にうた
死神のコーナーキック〔ほか〕



なぜ古典を読むのか

なぜ古典を読むのか
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イタロ・カルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」

訳 須賀敦子


 
ビューティフル・アーキテクチャ ・・美しいアーキテクチャ
で、紹介されていた

 イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」を手に取りました。



 なぜ古典を読むのか?


 1.古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。

 実際には、長年気になっており、読みたいと思っていながら手に取る機会がなく、
 いまさらながら読み、その意外さ・新鮮さ・面白さに驚いている、というものです


 2.古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじぐらい重要な資産だ。

 3.古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。


 4.古典とは、最初に読んだときとおなじく、読みかえすごとにそれを読むことが発見である書物である。


 5.古典とは、初めて読むときも、ほんとうは読み返しているのだ。


 6.古典とはいつまでも意味の伝達を止めることがない本である。


 7.古典とは、私たちが読むまえにこれを読んだ人たち足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば、言葉づかいとか慣習のなかに)足跡をとどめている書物だ。

 
 8.古典とは、その作品自体にたいする批評的言説というこまかいほこりをたてつづけるが、それをまた、しぜんに、たえず払いのける力をそなえた書物である。
 

 9.古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である。


 10.古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である。


 11.「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。


 12.古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが(古典の)系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。

 
 13.時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。


 14.もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ。




 それでも、わざわざ苦労して古典なぞ読んでもと思う人に対して、
 シオランの言葉を紹介しています。

≪「毒人参が準備されるあいだ、ソクラテスはフルートでひとつの曲を練習していた。
  『いまさらなんの役に立つのか?』とある人がたずねた。
  答えは『死ぬまでにこの曲を習いたいのだ』≫





 以下、イタロ・カルヴィーノさんにとっての古典30冊ほどのエッセイがありますが、
 1冊だけ紹介します。

 クセノポン「アナバシス ― 敵中横断6000キロ」

≪そもそも『アナバシス』にはパトスもある。
 それは帰還へのあせり、外国での心細さ、ちりぢりにならないようにする努力である。
 というのも、いっしょに固まっていさえすれば、とにかく祖国は彼らとともにあるからだ。≫


≪クセノポンには、完璧な技術的効率をめざす現代の倫理観が見てとれる。
 普遍的倫理の教えるところに従ってみずからの行為の価値を判断するのではなく、
 「状況に対処でき」、「事をおこなうにあたって、これをうまくまとめる」というのが、
 彼らのやり方だ。≫

 ・・この態度は、もちろん、現代人にも通じる、と。

 

<目次>
なぜ古典を読むのか
オデュッセイアのなかのオデュッセイア
クセノポン『アナバシス』
オウィディウスと普遍的なつながり
天、人間、ゾウ
『狂乱のオルランド』の構造
八行詩節の小さなアンソロジー
ガリレオの「自然は書物である」〔ほか〕


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