三春滝桜

 夏井の千本桜、永泉寺のシダレ桜の後、

 いよいよ三春滝桜・・

三春滝桜

三春滝桜


 満開を少し過ぎた頃・・見事な滝桜でした。

三春滝桜

三春滝桜

 
 17時過ぎたせいか、駐車場にも案内の人はおらず・・もちろん駐車料は取られず

 また、屋台もすべてクローズ・・さくら飴屋さん1軒だけ営業していましたが、

 商売っ気なし(>_<)

 見物客が引っ切りなしにきており、

 気温も東京が18度に対して、6度にまで下がっていたので

 温かいコーヒーが欲しかったところでしたڤ

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永泉寺の桜

 夏井の千本桜から、三春滝桜へ向かう途中、

 見事なシダレザクラが見えたので立ち寄りました。


永泉寺の桜

 三春滝桜の姉妹樹のベニシダレザクラ・・樹齢400年でした。

永泉寺の桜




 先々週、4月17日は、大雪の翌日だったこともあり、
 まだまだだった夏井の千本桜に再び訪れました。
 
 夏井千本桜2010・・遅い春


 ここにも、いよいよ春到来

 桜は八分咲きといったところ・・

 あいにくの曇り空なので、写真は暗めでした(>_<)

夏井千本桜

夏井千本桜

夏井千本桜

夏井千本桜

夏井千本桜

夏井千本桜


 桜の木に沿って咲いている黄水仙もきれい

夏井千本桜

夏井千本桜


 
 つくし・・見つけると嬉しい

夏井千本桜


 鯉のぼりの姿は、見ていて気持ちいいですね。

夏井千本桜

夏井千本桜


夏井千本桜


 川沿いを1時間ほど歩いて戻ってくると、
 日差しが戻ってきました。

夏井千本桜

夏井千本桜

夏井千本桜



 

 週末、裏磐梯へ・・

 お目当ては、途中下車して、夏井千本桜と三春の滝桜・・

 昨年は、4月26日と1週間遅かったのですが、

 夏井千本桜は満開を過ぎ、三春の滝桜はすべて散った後

 ・・だったので、前倒ししたのですが、

 土曜日は大荒れ・・

 常磐自動車道は、いわき三和で、

 「この先、吹雪のため下車せよ」の指示

 一般道で、小野まで走り、

 お目当ての夏井千本桜は・・

夏井千本桜 

 駐車場も河原も一面の雪・・

夏井千本桜

 桜もあまりの寒さにつぼみのままでした。

夏井千本桜

 あとで、猫魔ホテルのお風呂で、三春の滝桜もつぼみ・・との話を聞きました(>_<)


 
 昨年2009年の夏井千本桜の様子

 先日、立山アルペンルートに行き、黒部ダムを目の当たりにしましたが、

   立山アルペンルート&雪の大谷ウォーク


 帰ってからその成立経緯が改めて気になったため、

 ビデオ「プロジェクトX シリーズ 黒四ダム」と
 
 単行本「プロジェクトX 挑戦者たち〈29〉曙光 激闘の果てに」手に取りました。

 
 戦後最大にして「最も過酷」と呼ばれたプロジェクト・・の一端、

 「史上最大の雄図が、史上最悪の難工事と化した」様子と、そこでの粘り強い取り組みの様子を

 改めて知りました。

 
 昭和31年(1956年)に、黒四ダム建設プロジェクトはスタートしますが、

 戦後復興の当時、関西地方は電力供給不足による復興の遅れに喘いでいた。
 
 「電力飢饉」とも呼ばれ、「産業の血液」である電力が不足のあまり、工場は週に2日の

 「休電日」を設けなければならなかった。

 そこで、戦前より構想として暖められていた黒四ダムの建設に白羽の矢が立った。

 といっても、黒四ダムに先立つ黒三ダムが、昭和15年(1940年)11月に完成していたが、

 黒三ダムは、トンネル工事が岩盤温度130度の高熱地帯に遭遇し、大雪崩によって宿舎が

 吹き飛ばされるという大災害に見舞われ、100名を超す死者を出す難工事のプロジェクトで

 あった。黒四ダムは、この黒三ダムのさらに上流に位置する人跡未踏の地にダムを建設する

 想像を超えたプロジェクトだった。

 プロジェクト開始時点での基礎調査は、本来事前に10調査すべきであれば、

 1~1.5程度しか調査できていない状態での見切り発車、建設開始となった。

 この調査と建設のプロセスは、のちに「黒部方式」と呼ばれる、調査しながら建設し、

 建設を進めながら調査の精度を高めるという方式だった。



 「黒部にけがはない」・・事故は即、死を意味した。

 
 黒部にダムを建設するためには、長野県側の標高1550メートルに位置する扇沢から、

 赤沢岳の下を貫通し、ダムの建設現場となる御前沢に抜ける5.4キロメートルの

 トンネルを掘る必要があった。

 トンネルは、一日二交代、24時間体制の突貫工事により、

 通常の2倍のスピードで掘り進められた。

 ところが、トンネルを3割ほど掘り進んだ時点で、岩から針でついたような水が噴き出した。

 岩盤に亀裂が生じ、脆弱になった地層・・破砕帯だった。

 少しの振動でも地盤が軟弱なため崩壊の恐れがあるため、手掘りに切り替える。

 しかし、掘る毎に水が噴き出し、土砂に埋まる、土砂を書き出しても、掘ってもまた土砂に埋まる。

 恐怖と徒労のいたちごっこ。 
 
 トンネル工事の親方だった笹島信義さん・・
「何千メートルと続く穴の中に入っていくんですから、この仕事は命懸けです。

 不安と恐怖に負けてしまったら、ダメなんです。

 勇気を失くしたら、前に進むことはできなくなる。・・」


 そんな中、ユーザーの関西電力の太田垣社長の現地視察・・それも通り一遍のものではなく、

 トンネル最先端の手掘りの現場までの視察・・

「・・現場の第一線まで足を運んで、わが目で見なければ納得いかんという、

 あの心構えに、私は感動しましたよ。」
 

 トンネルの最先端で悪戦苦闘していた堀一重儀さん・・
「お金だとか、条件だとか、そういうもので仕事をする連中は、すぐに辞めていくんです。

 それはしかたがないことだけれども、笹島班長はお金をエサにして労働者を使う人じゃなかった。

 人間同士のつながりというのか、信頼関係で人を動かす親方だよね。・・」

 
 この苦境を脱するための方策を、国内外のトンネルの専門家・研究者に尋ねますが、解なし。 

 当時、トンネル掘削技術が世界一といわれたアメリカの技術者は、
 
 「われわれだったら、こんな条件の悪い場所にダムはつくらない」とケンモホロロ。

 最終的に、本体のトンネルと並行して、水抜き用の穴をボーリングによって岩盤に開けることで、

 水を抜いた。

 そして、貫通・・トンネル完成まで1年の予定は、破砕帯による7ヶ月の停滞を余儀なくされ、

 1年7ヶ月で貫通した。

 
 ・・ここまでが、映画「黒部の太陽」の物語


 ところで、

 トンネル貫通後の昭和33年(1958年)からダムの建設は開始されます。

 途中、トンネル工事の遅延解消のため、起死回生の大発破により山肌を吹き飛ばしたり、

 伊勢湾台風によって宿舎が流されたり、雪崩により生き埋めになる等あまたの困難を

 乗り越えながら、5年かけた昭和38年(1963年)、ダムは竣工します。


 ・・ビデオの終了後は、感動のあまり・・先人の偉業をかみしめ、静かにもの思うのでした。





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