聖地巡礼リターンズ・内田樹&釈徹宗

東京書籍

2016年刊


 聖地巡礼リターンズ・内田樹&釈徹宗  


 今回の「聖地巡礼」、長崎の二日目。

 長崎市の中心部から1時間ほどの西彼杵半島西部の外海地域・・

 かつての「陸の孤島」であり、

 角力灘に面した外海は、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台の地。

 サン・ジワン枯松神社
    ↓
 カトリック黒崎教会
    ↓
 バスチャン屋敷跡
    ↓
 カトリック出津教会
    ↓
 旧出津救助院
    ↓
 大野教会堂


 
 隠れキリシタンたちが信じていた

 バスチャンの予言・・

1.汝らは七代までは我が子とみなすが、それ以後は救霊が難しくなる。

2.コンソエーロ(贖罪司祭)が大きな黒船に乗ってくる。
  毎週でもコンピサン(告白)が申される。

3.どこでもキリシタンの教えを広めることができる。

4.途中で異教徒に出会っても、こちらから道を譲らぬ前に先に避けるであろう。

 つまり、「七代まで信仰を守り続ければ救われる」と予言を残した。


 オラショ「ぐるりようざ」を聴きながら、読み進みます(^^♪



 信仰の強さ・・

 あらゆる人間の過剰さの根底には「信じる」ことがある。

 一見、宗教から真逆の科学においてもそうである。

 天文学をはじめたのは修道士であり、

 彼らを突き動かしたのは、「どこかに神の存在を証明する法則があるはずだ」という

 尋常でないパッションがあった。

 エンドウ豆で遺伝の研究をしたメンデルも修道士だった。

  


 内田先生曰く、

≪宗教って、ある種のひとつの「病み方」なんですよね。

 健全な人ってこの世に一人もいないですから。

 程度の差はあれ、みんな心を病んでいる。

 そして、人間の持つ本質的な弱さは必ず「物語」を求める。

 宇宙を統べるひとつの統一的な摂理があって、自分の個人的な祈りが、

 そこに伝わると、宇宙の風景に、自分の祈りによってわずかではあれ変化がもたらされる。

 人間は個人としては、空間的にも時間的にも限定的な生を営むしかないわけですけれど、

 どこかで類的な宿命に繋がっていたい。

 有限的な存在が、無限の境位と、ある超越性の回路を経由して繋がることを夢見る。

 そういう物語を人間はどうしても必要としているんだと思います。≫




 最後に・・ 

 山の中に400年前からあるキリシタン遺跡を、観光の目玉にする。

 「日本に行って聖地を巡ろう!」をキャンペーンにすれば、

 世界の10億人のカトリック教徒が対象になり、

 そのうち100人に1人がきただけでも、1000万人になる。

 つまり、キリシタン遺跡は、真にグローバルな遺産となる。





<目次>
1日目 長崎とキリシタン
・春徳寺(トードス・オス・サントス教会跡)
・サン・ドミンゴ教会跡
・長崎県庁と霊性
・二十六聖人殉教地
・浦上天主堂
・原爆落下中心地
・大浦天主堂

2日目 隠れキリシタンの里へ
・枯松神社
・黒崎教会
・バスチャン屋敷跡
・出津教会
・出津救助院
・大野教会

3日目 京都と大阪のキリシタン
・妙満寺跡(二十六聖人発祥の地)
・椿寺
・茨木市キリシタン博物館
・カトリック高槻教会
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聖地巡礼リターンズ・内田樹&釈徹宗

東京書籍

2016年刊


 
 今回の「聖地巡礼」は、長崎!

 
 キリシタンのことを知るには、日本国内の資料だけでなく、

 スペインやポルトガルなどにある宣教師たちの文書類に目を通す必要があるため、

 かなり膨大な量なので、まだすべて解読するに至っていない、とのこと。


 
 豊臣政権の1597年に、二十六聖人が、西坂の丘で処刑される。

 徳川政権になり、長崎は天領となる。

 1614年、全国に禁教令が出されて、本格的な迫害が始まる。

 宣教師やキリシタン大名の高山右近たちは長崎港から国外追放、教会堂は破壊され、

 信徒たちは隠れる。

 1629年、踏み絵が始まる。

 1629年から1858年までの230年間、たとえ信者でなくても、

 長崎に住む人は全員踏まなくてはならかなった。


 1633年、ポルトガルの宣教師フェレイラが棄教する。

 1637年から38年にかけて、天草・島原の乱により、取り締まりはさらに厳しくなり、

 鎖国状態となる。

 1790年、浦上一番崩れ

 1839年、浦上二番崩れ

 1856年、浦上三番崩れ

 「崩れ」とは、弾圧・検挙事件を指し、

 場合によっては、組織が崩れてしまうということ。


 幕末、日本は開国される。

 1865年、大浦天主堂が建立される。殉教した二十六聖人のために建てられた日本最古の教会。

 ここにやってきたフランス人宣教師プチジャン神父の前に、隠れていた信徒たちがやってきて、

 「信徒発見」にいたる。

 しかし、
 
 1867年に、浦上四番崩れ、が起こる。

 浦上四番崩れでは、3000人以上のキリシタンたちは萩や津和野や福山に流され、

 ひどい拷問を受ける。その後、故郷に戻ってみると、略奪により家も財産も何もない状態だった。 
 

 1873年、ついにキリシタン禁制の高札が撤去され、浦上四番崩れの流配者が帰還する。

 注目すべきは、明治6年2月まで、明治新政府になってからも迫害が続いたということ。

 




 長崎は、キリシタン大名の大村純忠が寄進し、イエズス会領になっていた時期がある。

 一方、秀吉が太閤検地と刀狩をやり、日本に国民国家の基本的な枠組みを作る。

 国土は国家のものであって、領主の私物ではなく、大名は政府の官僚であり、軍人である。

 各地の共同体の自治能力も宗教も国家に組み入れられていく。
 
 当時、そういう発想をしていたのは、信長と秀吉だけだった。

 そのため、秀吉からみると、大村純忠の許されなかった。

 もしそれが認められていたら、日本のあちこちの領土がイエズス会やバチカンや他の修道院に

 寄進されていたかもしれない。 
 


・・続くかも?!



<目次>
1日目 長崎とキリシタン
・春徳寺(トードス・オス・サントス教会跡)
・サン・ドミンゴ教会跡
・長崎県庁と霊性
・二十六聖人殉教地
・浦上天主堂
・原爆落下中心地
・大浦天主堂

2日目 隠れキリシタンの里へ
・枯松神社
・黒崎教会
・バスチャン屋敷跡
・出津教会
・出津救助院
・大野教会

3日目 京都と大阪のキリシタン
・妙満寺跡(二十六聖人発祥の地)
・椿寺
・茨木市キリシタン博物館
・カトリック高槻教会
困難な成熟
内田樹「困難な成熟」

夜間飛行

2015年刊



 「責任を取ることということは可能でしょうか?」


 という問いに対する答え


 ・・「不可能です」(+_+)


 なぜなら、

≪人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、

 それを「復元する」いうことは原理的に不可能です。≫

≪「ごめんで済む話」はこの世にない、と。≫

 だから、

≪・・「責任取れよな」という言葉は、

 「おまえには永遠に責任を取ることができない」という呪いの言葉です。≫


≪責任というのは、誰にも取ることのできないものです。

 にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。

 自分で引き受けるものです。

 というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、

 「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減

 していくからです。≫

 
 みなが、「俺が責任持つよ」というのが、

 住みやすい社会である、と。


 

 話は変わって・・

 「働くとはどういうことか?」


 労働の本質を表すエピソード・・

≪ひとりがカンヅメを作っているときに、

 「ちゃんとカンヅメを作っているかどうか監視するやつ」や
 「ちゃんと監視しているかどうか監視するやる」などが無限に増殖してゆきます。

 最終的には、生産するのがひとりだけで、あとは全員監視しているという
 社会システムになるまで止まりません。

 そんな暇があったら、監視するよりカンヅメ作るの手伝えばいいのに・・
 とみなさんは思うでしょうけれども、そういうことは絶対に起きないのです。≫

 だから、

≪労働は「安定的な供給システムの立ち上げ」が目的であり、

 そのシステムを流れていく財そのものの質や多寡には副次的な重要性しかない。≫


 つまり、

≪人類史とは「人間にとって必要なもの」を作り出す工程の高度化・複雑化のプロセス
 ではありません。

 残念ながら、そうではなくて、「人間にとって必要なものを作り出す工程の管理」
 の高度化・複雑化のプロセスだったのであります。はい。≫

 ・・って(>_<)

 労働の本質は、「生産」ではなく、「制御」だったとは(*_*;
 
 これは、自然過程ではなく、倒錯してしまっている。

 だからこそ、私たちが仕事を選ぶ基準は・・

≪その仕事をしていると、生きる力がなんとなく高まるような感じのする仕事をしてください。≫

 「生きる力がなんとなく高まる感じ」を直感で判断できることがとっても大切。




<目次>
第1章 社会の中で生きるということ
責任を取ることなど誰にもできない
正義が成り立つ条件
ルールとの折り合いをつける
フェアネス(公平・公正)とは何か
日本を変えていくには

第2章 働くということ
労働とは不自然なものである
組織の最適サイズ
会社とは「戦闘集団」である
「やりたいことをやる」だけでは人生の主人公になれない
執着と矜恃を分かつもの
運と努力の間で

第3章 与えるということ
格差論のアポリア
贈与のサイクルはどこから始まるか
贈与の訓練としてのサンタクロース
わらしべ長者が教えてくれるお金の話
大人になるとは

第4章 伝えるということ
最近の人がすぐにバレる嘘をつくのはなぜか
死について考える
「青年」がいた時代
教育とは「おせっかい」と「忍耐力」である
メンターからの「卒業」
子育ては誰にでもできる

第5章 この国で生きるということ
「愛国者」とは誰のことか
トラブルは「問題」ではなく「答え」である
常識の手柄
今、日本人が読むべき本七選

あとがき

【楽天ブックスならいつでも送料無料】高校生と考える日本の問題点 [ 桐光学園中学校 ]
内田樹「高校生と考える日本の問題点」 (桐光学園大学訪問授業)

2015年刊

左右社



 本書、高校生向けの20回分の講義録。


 冒頭の内田樹さんのテーマは、「生きる力を高める」・・

 
 いまの時代は不安か?

≪でも、実はいつの時代だって、事情は同じなんです。

 いつでも先の見通しなんかさっぱり立たなかった。≫


 だから、これからも、

 化石燃料が枯渇し、食糧危機、水不足が現実となった時、どう生き延びるか?

 日本の人口が5千万減った後、どういう社会制度を設計するのか?

 を考えなければならない。



 大学はもはや「ファクトリー」になっている。

 でも・・

≪アカデミアはその時代の支配的な価値観やイデオロギーとは独立した空間です。

 社会内部の特異点と言ってもよい。

 そこだけは、世俗の世界のちまちました損得勘定や政治的抑圧や

 宗教的な制約から解放された、思考の自由が担保されていた。

 人間たちの共同体を維持し、成熟させるためには、そのような場が

 なくてはならないということを直感した人たちがアカデミアを支えてきた。

 そこでは独特の長い、ゆったりとした時間が流れていました。

 知性と感性の成熟のためには、それだけの時間が必要だからです。

 どのようなことを学んでも、何を研究しても、

 「それを勉強すると年収いくらになるのか」とか

 「それを研究すると外部資金をどれくらい引っ張ってこれるのか」

 というようなせこい問いを向けられることはなかった。≫



 「ファクトリー」と化した大学が育成する人材は、

 3%のエリートと、

 97%の「グローバル人材」。

 グローバル人材とは、平田オリザさん曰く、

 「ユニクロのシンガポール支店の店長を創り出すための教育のことだ」

≪英語ができて、タフなビジネスの交渉ができて、一日15時間働けて、

 辞令一本で翌日から海外の支店や工場に赴任できて、

 何よりも低賃金を苦にしないこと。≫





 姜尚中さんのテーマは「平凡の中の偉大」・・


 グレン・グールド曰く、

「二十世紀で読む本が二つある。

 『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』だ」


≪悩んでいるとき、それはじぶんとの距離感がなくなっているときです。

 自分との距離がなくなると、他人との距離感もとれなくなる。

 だから、距離をとることが大切なのです。

 実は、これは凡人でもできる。

 いや、凡人だからできることなのです。≫


≪平凡の要諦とはなにか。

 私なりの答えです。

 「あれがなければ生きていけない」と考えないことです。

 「あれがなくても、これがある」と考えること。

 そういう生き方ができることです。≫

【楽天ブックスならいつでも送料無料】ぼくらの身体修行論 [ 内田樹・平尾剛 ]
内田樹・平尾剛「ぼくらの身体修行論」(朝日文庫)

朝日新聞出版

2015年刊


 途中から拾い読みしていたら、どこかで読んだことあるな~、

 と思って、「まえがき」を読んだら、「合気道とラグビーを貫くもの」の改題・文庫本でした(>_<)

 内田樹・平尾剛「合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論」(朝日新書)

 でも、ボーナストラックもあるし、

 自分がしるしをつけたところも全く違ったので、満足でした。




≪失敗の多い人ほどコーチ向き≫

 身体能力の低い人は、いろんな失敗をする。無駄な寄り道をたくさんしている。

 でも、そのおかげで、

≪他人がうまくできないでいるときに、どうしてできないのか、

 自分の経験に照らしてよくわかるんですよ。

 失敗の数では負けないから、これはコーチとしては悪くない資質だと思うんですよ。

 「できない」ということの苦しさも、その生産的な意義もよくわかっているから。≫(内田)


 一方、「できてしまう人」は、言葉が足らない。なぜなら、「できちゃう」から。


 だから、うまくできなかったという経験は、貴重な財産になる。

 はじめからできることは、どうしてできるかを言葉で他人に伝えることができないから。



 さらにいうと、

 「正解を知っているので解答できる」能力よりも、

 「正解がわからないけれど解答できる」能力の方が大切である。




<目次>
第1章 身体とコミュニケーション
第2章 身体と師匠
第3章 身体と感受性
おわりに
ボーナストラック特別対談 進化する身体論

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