【送料無料】根をもつこと(上)

シモーヌ・ヴェイユ「根をもつこと(上)」(岩波文庫)




≪義務の観念は権利の観念に先立つ。

 権利の観念は義務の観念に従属し、これに依拠する。

 ひとつの権利はそれじたいとして有効なのではなく、もっぱらこれに呼応する義務に
 よってのみ有効となる。

 権利に実効性があるかいなかは、権利を有する当人ではなく、
 その人間になんらかの義務を負うことを認める他の人びとが決める。≫




責任・・

≪自発性と責任、

 すなわち自分は有用であり不可欠である存在だという感覚は、
 人間の魂の生にかかわる欲求である、≫





≪思考の自由について、自由なくして思考は存在しないというのは、
 おおむね正論である。

 だが思考が存在しないとき思考はもはや自由でないというのも、
 これをうわまわる正論である。

 ここ数年、思考の自由はあふれかえっていたが、
 思考は存在しなかった。≫




根こぎ・・

≪根をもつこと、

 それはおそらく人間の魂のもっとも重要な欲求であると同時に、
 もっとも無視されている欲求である。≫


≪人間は複数の根をもつことを欲する。

 自分が自然なかたちでかかわる複数の環境を介して、
 道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲するものである。≫


≪失業はいうまでもなく二乗の根こぎである。

 労働者は、工場にも、自分の住まいにも、彼らの味方と称する党や組合にも、
 真の想いをみいだせない。
 たとえ知的文化を吸収しようとしても、そこにも憩いはみいだせない。≫



≪根こぎは人間社会にとって他に類をみないもっとも危険な病である。

 おのずから増殖していくからだ。≫

 根こぎにあった人は、

 無気力状態に陥るか、

 まだ根こぎの害をこうむっていない人に対して、暴力的な手段で根こぎにする行動をとるか、

 の態度をとる。後者は、ヒトラーのナチスに共感する人びとであったし、
 今日でも発生しうる。




<目次>
第1部 魂の欲求
(秩序
自由
服従
責任
平等
序列
名誉
刑罰
言論の自由
安寧
危険
私有財産
共有財産
真理)
第2部 根こぎ
(労働者の根こぎ
農民の根こぎ
根こぎと国民)


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田辺保「シモーヌ・ヴェイユ―その極限の愛の思想」


 シモーヌ・ヴェイユが憑かれていたもの・・

「不幸な人に注意を向け、思考によって不幸な人のものへおもむき」

「対象をあるがままに、その真実のすがたにおいて愛しようとする真の姿」



「つねに勝利者たちの陣営をはなれる定めをもつ正義の側に転身する心構えでいる」



「工場日記」の頃・・

 組合活動の一環でなく、
 政治的なイデオロギーに動かされたものでもなく
 
 「一切を所有しない真のプロレタリアートの心情が赤裸にうずいている環境と
  直結したいという純粋な衝動につき動かされて」いた。

 そこでみたもの・・
 
  監督者が怒鳴りつける中で
  事故や怪我が頻発する工場の現場・・
  病気をかかえてノルマをこなせず、生活費さえ稼ぐのが困難な人々 
  ここには、ほんのちょっとした友情も、自尊心も生きのびることは困難だった。




「・・一つの信仰、一つの教えにまったき注意力、まったき愛をかたむけることのできた
 人だけが、真に普遍的な心の秘密に加わることができるのである。
 こういう人間の精神的な態度をとりもどさせて、文明の根底に真の「根づき」を
 与えること、
 - 彼女が現代人の渇望にぴったりこたえる言葉で訴えている事柄のすべては
 そこにある。」


シモーヌ・ヴェイユ「工場日記」

訳は、田辺保


 シモーヌ・ヴェイユの「工場日記」・・

 絶版中のため、古書を2千円で手に入れました。

 
 1934年時点の工場における未熟練労働者の実体験をした・・哲学教授

 たんなる腰掛けを超えたコミット・・

 そして、そのことがヴェイユの命を削ったのかもしれません。

 でも、ヴェイユの日記を読みながら、

 考える自由があるはずの私たちが、ややもすると、考えることを避けようと

 していることに気づかされるのでした。

 

 「何よりシモーヌにおいてたたえられるべきことは、

  完全の要求と自分の生涯とをまったく一致させたという点である。」

  アルベルチーヌ・テヴノン



 1934年12月4日火曜日、入社。


 第三週 

 「非常に激しい頭痛、ほとんど休みなく、泣きながら仕事をする

  (帰宅しても、次々に泣けてきて、果てしがない)。

  それでも、3、4個のオシャカを除いて、へまもしなかった。」


 第六週
 
 「同じ仕事。徹底的にこき使われる。

  やり方もわかってきた。・・」

 第七週

 「・・機械を止めたとき、心は真暗で、希望もなく、そのうえ、

  ぐだぐだに疲れて精も根もつきはてた状態だった。

  しかし、たまたま歌の好きなかまど係の少年にぶつかり、

  少年がにっこり笑い顔を見せてくれたり - 倉庫係に出あったり、 
 
  - 着がえ部屋で、いつもよりもっと陽気な冗談が交わされるのを聞いたり、

  もうそれだけでわたしにはよかった、 - こういうほんのちょっとした

  あたたかい友情があれば、わたしの心はよろこびに溢れ、しばらくの間は

  疲れも感じずにすむのだ。」


 「ひどい疲れのために、わたしがなぜこうして工場の中に身をおいているのかと

  いう本当の理由をつい忘れてしまうことがある。

  こういう生活がもらたすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、

  ほとんどうちかつことができないようになった。

  それは、もはや考えることをしないという誘惑である。

  それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。

  ただ土曜日の午後と日曜日にだけ、わたしにも思い出や、思考の断片がもどってくる。

  このわたしもまた、考える存在であったことを思い出す。

  わたしは、自分がどんなにか外的な事情に左右される者であるかを見てとると、

  ほんとうにぞっとする。・・」
 

 第十六週
 
 「ものを考えるのをやめなければならないということの屈辱感を、

  心の底から感じる。」



 「・・つらい苦しい仕事をしているのにわたしは仕事をたのしんでいた。」


 
ルノー工場にて。

「奴隷的な境遇の不つごうな点は、

 洞穴の中の青白いかげにすぎない人間存在を、ともすると現実に存在するものであるか

 のようにみなしたくなることである。」


「隷属状態にいたために、わたしに自分にも権利があるのだという感覚を、
 
 すっかり失ってしまった。」


「重要な事実は、苦しみではなく、屈辱である。

 おそらく、この点を、ヒットラーは自分の力をつくる足がかりにしたのだ。」


「自分がしている仕事が、いったい何に使われるものかをまったく知らないでいることは、

 非常に意気をくじけさせるものである。」


「睡眠が、労働にとって一ばん必要なものであることを忘れないこと。」




自由と社会的抑圧

シモーヌ・ヴェイユ「自由と社会的抑圧」

訳は、冨原眞弓


「人間にかかわる事象においては、笑わず、泣かず、憤らず、

 ただ理解せよ。」 スピノザ



 冒頭のマルクス主義批判・・

 「事実、マルクスは資本主義的抑圧のメカニズムをみごとに解明する。

 ただし、あまりにみごとな解明ぶりなので、これほどのメカニズムがいかにして

 作用をやめうるのかを、思いえがくのに骨が折れるはずだ。」

 でも、マルクスの説明は、経済的様相のみを見ている。

 ところが、「企業と企業を掌握する人びとにたいする労働者の完全なる従属は、

 工場の構造にもとづくものであって、私的所有体制にもとづくものではない。」


 「肉体労働と知的労働を分かつ堕落的な労働分業」・・

 その基となる科学は、占有されている。これは公教育の不備のためではなく、

 科学の本質そのものに起因する。

 
 革命は、その本質において、生産力の解放であって、人間の解放ではなかった。

 「われわれが革命に求めるのは、社会的抑圧の廃絶である。」


 「驚くべきことに、

  抑圧というものは、経済のより高次な形態においてようやく出現するのではなく、

  すべての形態について回る」・・って?!、「驚くべきこと」という言葉に驚きます。

 原始的な社会がユートピアと思っていた時代があったんですね~



「・・人間にとってもっとも不幸ならざる状況とはなにか、

 自然と社会による二重の支配への従属がもっとも軽微な状況とはなにかを構想することだ。」



「世界はわれわれをその複雑さでうちのめす状況にあふれているので、

 本能や型仕事(ルーティン)や模索やその場しのぎが、労働のなかで一定の役割を演じるのを

 やめることはない。

 人間にできるのは、科学と技術の進歩の力を借りて、この役割を徐々に切りつめていくことだけだ。」


「しかし事実としては、例外が、唯一の例外が存在する。

 すなわち思考の領域である。

 思考が問題になるや、関係は逆転する。

 存在が無を凌駕するように、個人は集団を凌駕する。

 ひとりで自己とむきあう精神においてのみ、思考は形成されるからだ。

 集団は思考しない。・・」

「ゆえに、集団的生が人間を服従させるのではなく、

 個とみなされた人間に集団的生が服従する・・」
 

 
「・・もっとも弊害の少ない社会とは、

 一般の人びとが行動するさいにあたってもっとも頻繁に思考する義務を負い、

 集団的生の総体にたいして最大限の制御の可能性を有し、

 最大限の独立を保持するような社会である。」





<目次>
第1章 マルクス主義の批判
第2章 抑圧の分析
第3章 自由な社会の理論的展望
第4章 現代社会の素描

シモーヌ・ヴェイユの座右の詩・・

 17世紀のイギリス詩人・・ジョージ・バーバート(George Herbert 1593-1633)


 愛  ジョージ・バーバート


「愛」がわたしに来いと命じたのにわたしのたましいはしりぞいた。

 罪とけがれにまみれているので。

でも、「愛」はそれをいそいでさとり、わたしが躊躇しているのを見て、

 わたしがはいって行くとすぐに、

わたしのそばに寄り、やさしくたずねてくれるのだった、

 わたしに何が欠けているのかと。



わたしは答えた、わたしはここにいてもよい客でしょうかと。

 「愛」は言った、おまえもそうされるだろうと。

わたしは恩知らずの悪者ではないのですか、ああ、愛するかた、

 わたしはあなたの方へ目を上げることもできない者です。

「愛」はわたしの手をとって、ほほえみながら答えた、

 その目をつくったのはだれだ、このわたしではないのか。



そのとおりです、主よ、わたしがその目をくもらせたのです、わたしの汚辱を、

 行くにふさわしいところへ行くままにしてください。

しかし、おまえは知らないのかと「愛」は言う。その罪を負うた者がいることを。

 愛するかた、わたしはこののち、あなたにお仕えいたします。

まあ腰をおろしなさいと「愛」は言う。わたしの食べ物を味わっておくれ。

 そこでわたしは、腰をおろして、食べたのだった。



 田辺保「シモーヌ・ヴェイユ その極限の愛の思想」講談社現代新書より


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