足立巻一「夕暮れに苺を植えて」

1981年刊

新潮社



 夕暮れに苺を植ゑてうゑ終へず雨ふり出でぬぬれつつぞ植うる


 足立巻一(けんいち)さんが、関西学院中等部に在籍した

 昭和2年から7年当時、同学校の国語教諭であり、

 自らも歌人であった池部宗七、筆名・石川乙馬(おとめ)の評伝を描こうとする物語。



≪もともと、人は死ねば歳月とともに気化するように人の記憶から薄れ、

 やがてその存在は完全に消えてゆく。

 いくら壮大な墓を建てたところで、たいてい三百年もすれば無縁墓になってしまう。

 それが人の生命というもので、成仏とはそういうことなのであろう。≫

 
 でも、足立さん、何年かぶりに訪れた先生のお墓参りをして、

 石川先生の遺稿歌集をぜひ編もう、という気持ちになります。


 そう思いながら、遺稿歌集に収めるべく、

 先生の経歴を書こうしてその足跡を辿るのですが、

 困難を極めます。

 そして、幼くして両親を亡くした先生の生い立ちが、不遇であったことを知ります。




 夕雨にぬれつつ植ゑし草いちご夏を疾(と)くこそ人もとくこそ
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足立巻一「日が暮れてから道は始まる」


編集工房ノア

1987年刊



 昭和43年、志賀直哉、77歳のときの一文。

「人間が出来て、何千萬年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、

 生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、

 例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、

 その一滴は後にも前にもこの私だけで、何萬年溯っても私はいず、

 何万年経っても生れては来ないのだ。

 しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。

 それで差支えないのだ。」

 これが全文であり、87歳で志賀さんが亡くなるまで変わらなかった死生観、とのこと。





 歩兵

 わたしはいつも歩兵だった。何一つ、特技・特権なく、ただ地べたを歩くだけの歩兵が

好きでもあった。将棋の「歩」が「金」に成ることは、一度も夢みたことがない。


 二度兵卒として軍役に引き出され、通算五年半、黄土のぬかるみを歩き続け、

山岳を縫う断崖の道を歩き続けた。・・


 戦争が終わっても、そのようにいつも、わたしは歩兵だった。そうして七十歳になった。

すると、歩けなくなった。両の足裏に疼痛がおこるのだ。足裏の皮膚が石になろうとして

いるのだという。医者が宣告した。いま毎日一時間以上歩かないと、あなたは必ず死ぬ、と。


 それで、足裏の痛みに耐えながら、また歩兵のように歩くことを日課とした。・・



 ・・老いたサルトルも地を摺るようにしか歩けず、とうとう

「もう立ってはいられぬ足が痛いんだ」といった。その両足には30パーセントしか

血がかよっていなかったそうな。
足立巻一「日が暮れてから道は始まる」

編集工房ノア

1987年刊


 昭和60年8月、72歳で亡くなった足立巻一さんの遺稿集。


≪つらいことだけれど

 道は

 日が暮れてから

 ほんとうに はじまるのだ≫




 自立

≪わたしがどうにか自活できるようになったのは、四十六歳になってからである。

 母の死がきっかけになった。≫

≪井上靖さんは、父を失ってはじめて父が存在するだけで死の風を防いでいたことを知った、

 と書いていられる。

 わたしは母の死によって、もっと大きな恩恵を受けた。

 つまり母の死と引き換えに自立を得たのだ。

 だれでも父母の死によって、ほんとうに自立するのではあるまいか。

 死こそ最大の愛だと思う。≫

 
 ・・深く同意します。

 



 南天



南天の実がたくさんつくと
よいことがある
と妻がいう。
けさ
わたしは七十歳になった。

父は三十四歳で死んだ。
だからわたしも三十四歳で死ぬ
と思いこんでいた。
戦場へ送られるとき、
その日が来たと思った。

それなのに
けさ
わたしは七十歳になった。
狭い庭に点々
南天の房々の朱が照る。

 *

ある日、南天の朱の実は突然すべて消え
五月、母の二十五回忌の朝
花軸の先端に一つずつ
昆虫の目玉に似たうすみどりのつぼみがつき
一つ二つの淡紅の点の花をひらいた。

この静かな変化に耐えよ。



足立巻一詩集・日本現代詩文庫15

土曜美術社

1984年刊



 実は、本書を手に取るまで、足立巻一さんが「詩人」であること、

 知りませんでした(>_<)

 皇学館大学出身で、『やちまた』・・本居春庭とその父・宣長のこと、

 戦争に二度招集されたときのこと等を読んでいましたが、

 そこには、「詩」がありました。



 中原

黄河が直角に曲がる内角
重畳する山地を一条の道が縫い
その道をおれたち楔入挺進隊は二度往復し
その少年兵に四度出会ったのだ。

一度め
その人は青い綿服を弾帯できりりと締め
きれいな顔をして横たわっていた。
おれたちは平気でまたいで過ぎた。

二度め
その人の青い綿服は気球のようにふくれ
顔も手足も丸く膨張しきっていた。
おれたちは平気でまたいで過ぎた。

三度め
その人は腐爛して強い屍臭を放ち
首には黒い甲殻虫がいっぱい群れていた。
おれたちは平気でまたいで過ぎた。

四度め
その人はなかば頭蓋となり
青い綿服はぺしゃんこだった。
おれたちは平気でまたいで過ぎた。

その戦闘は<中原会戦>と名づけられた。

あの山地のどこに中原があったであろう?
一九四一年のこと。




 脱走

 戦争がすんで三十数年にもなるというのに、戦争の夢を見る。
それも脱走する夢なのだ。陣地から、行軍序列から、内務班から、
おれはやにわに脱走する。きのうは夜営から脱走し、黄土地帯の
大家族に逃げこんだ。隠密の梯子を伝って、かくし部屋に忍ぶ。
憲兵はすでに出口をふさいでいる。おれは敏捷な移動をつづけ、
屋根裏の穀物部屋に這いあがった。黒衣をまとった坊主頭が
うしろむきにうずくまっていて、よし、かくまってやろう、といった。
が、坊主頭は癇癪持ちで、ひどい発作をはじめた。
途端、目がさめ、そうしておれの一夜の脱走は終わったのだが、
厠に立つと、鳶の触手が窓の隙間から忍びこんでいる。
夢の科学者ども、フロイト以下みんな、戦争を知らぬ-。

人の世やちまた

人の世やちまた (1985年) (ノア叢書〈8〉)
足立巻一「人の世やちまた」(ノア叢書)

編集工房ノア

1985年刊



 『やちまた』の著者、足立巻一さんの最後のエッセイ集。

 足立巻一さんが、神宮皇学館の出身ということもあるのですが、

 足立さんの本を読んでいると、父親の昔話と重なるところがあって、なんだか

懐かしい感じがします。

 また、1985年8月14日に72歳でお亡くなりになったとのことですが、

その死因も急性心筋梗塞と同じであったりしたことを知り、ますます近しく感じています。




 冒頭で、なぜ「やちまた」という言葉が好きか、を述べられています。

 本居宣長の長男、本居春庭の文法の研究書『詞のやちまた』によります。

≪春庭は三十二歳のころに失明したが、妹と妻の助けで四十四歳のときに

 この名著を成した。

 これに「やちまた」と命名したのは言葉を道になぞらえたからで、

 言葉は八方に分かれる道のようなものなので、その使い方をまちがえないように

 この本を書いた、というのである。

 しかし、「やちまた」であるのは言葉だけではない。

 人生そのものが「やちまた」である。

 生きてゆくことはたえずいくつにも分かれた道の一つを選び、

 それを進めばまた「やちまた」に立たねばならぬ。

 「やちまた」の連続だ。・・

 そんな感慨を得、わたしは「やちまた」を関防印に刻み、

 人生観の結語として「人の世やちまた」を自分の墓に彫りつけたのである。≫






PS

 昭和52年12月にNHKで放映された『やちまた』・・

 どこかで見てみたいですね~

 
PS2

データベース照会システム「ヤチマタ」と名詞句データ模型
Yachimata, a Data Base Query System, and the Nounphrase Data Model

≪抄録

 ヤチマタは, 日常使用に近い日本語によるデータベース照合システムである.
 照会文を片仮名により端末より入力すれば, 回答結果が表の形で端末上に表示される.
 照会文としては十分に多様な表現が許されるとともに不必要な詳細は書かずにすむため,
 使用者は自然に習熟することができる.
 仮名書きにおける分かち書きの自由さ, 同音異義語の多さ, は致命的な障害ではない.
 曖昧さが生じたときには対話により解消される.
 ヤチマタは汎用に設計されており, できるだけ多くの部分を諸応用から独立させる一方,
 各応用に依存する部分は容易に付加できる.
 また, 1つのデータベース管理システムの下で, 他の形式的な照会・更新言語と共存することができる.
 ヤチマタ設計の基礎は名詞句データ模型の概念である.
 これは関係形式データ模型の変形であって, データベースと自然言語との間を橋渡しするものである.
 すべてのデータは名詞句に対応し, 名詞句の修飾は関係代数演算と類似の演算に対応する.
 汎用性を示すため, 部品の在庫, 航空便の時刻, 地域統計, の3つの実験的な照会システムが稼動しており,
 明確に規定された範囲の中では日本語で正確に質問できるし,
 日本語はむしろ照会言語向きの面もあることを実証している.≫

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