馬杉宗夫「大聖堂のコスモロジー―中世の聖なる空間を読む」(講談社現代新書)

講談社

1992年刊





≪ゴシック建築は、何よりも光りと高さを求めて発展していった。

 光への願望と高さへの志向性。

 これこそが、ゴシック建築が求めていたものである。≫

 
 これを実現するため、3つの技法が考案された。


 1つ目は、高さを求めるために、ロマネスク時代の半円アーチを、尖頭アーチに変えた。

 2つ目は、ロマネスク時代に用いられた交差ヴォールトの力学的弱点を、
 リブ(肋骨)で補強するリブ・ヴォールトにより、軽く天井を支えることを可能にした。
 
 3つ目は、アーチの出発点に生じる横圧力を支えるため、飛梁・フライング・バットレスと呼ばれる
 外部から蜘蛛の脚を空中に架けた。

 この尖頭アーチ、リブ・ヴォールト、飛梁・フライング・バットレスにより、

 高い天井構造を築き、かつ壁面を大きく窓に開放することを可能にした。




<目次>
第1章 教会堂の起源とその誕生
第2章 修道院建築―ロマネスクの世界
第3章 大聖堂(カテドラル)の成立―大聖堂で表現されているもの


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図説 大聖堂物語―ゴシックの建築と美術 (ふくろうの本)

佐藤達生・木俣元一

河出書房新社

2000年刊



 中世のフランスには、約80の司教座大聖堂が存在した。

 アミアンの大聖堂は、7700平方メートルの床面積をもち、

 当時の約1万人の住民すべてを収容できた。

 アミアンより少し小さいシャルトル大聖堂も、

 当時の住民、6000人をすべて収容することができた。

 当時は、ロンドンでさえ、人口3~4万人にすぎず、
 最大の都市、パリでも、8~10万人だった。




 大聖堂の建設工期・・

 ケルン大聖堂は、1248年に工事開始し、1880年終了。実に、632年間かかった。

 でも、実際には、1560年から1842年まで中断していたので、実質的には350年だった。

 シャルトルが、27年だったように、

 多くの大聖堂は、100年未満で建てられている。

 工期を左右したのは、雇用できる職人の数、すなわち建設資金によった。

 石工、石切工、大工、大理石職人、大理石磨き職人、鍛冶職人、ガラス職人、屋根職人など
 の職人に加え、
 人足などの単純労働者を加えても、全体で、400~500名で、
 40年~70年かかった。 

 だから、コンスタンティノポリスのハギノ・ソフィア大聖堂は、
 1万人の職人と労働者を2交代で競争させて、両側から建設させた結果、
 わずか6年で建設された。





 中世の建築家が現代の建築家と大きく異なるのは、
 彼らは何よりもまず石工としての修業を積み、
 その棟梁としての豊富な経験を有していたことである。
 
 建築家(アーキテクト)という言葉は使われず、
 マスター(棟梁)と呼ばれていた。



<目次>
序章 ゴシックの誕生
第1章 壮麗なる空間をめざして
第2章 大聖堂の建立
第3章 大聖堂の時代と新しい視覚文化
第4章 大聖堂探訪


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パトリック・ドゥムイ「大聖堂」(文庫クセジュ)

訳 武藤剛史

白水社

2010年刊




『司教典礼』によると、

「大聖堂とは、司教の座が置かれた教会のことである。

 司教座は、教会に委ねられた司牧者としての教導権および権力の象徴であり、
 また民の牧者である司教が告げる信仰のもとに集う信者たちの統合の象徴でもある」。





 12世紀の後半から13世紀全般にわたり、大聖堂の建設ラッシュがあった。

 この背景として、まず都市の急速な発展があった。

 貨幣経済が進展し、手工業や商業の発達など、経済活動の活発化に伴い、
 都市人口がそれまでに比べ3倍余り増加した。

 彼らを収容できる大聖堂と、無数の教会堂が必要となった。



 
 ロマネスク式からゴシック式へ・・

「建設の歴史とは、内部空間をできるだけ広げ、採光窓を大きく開けるべく、
 いかにして重い石材の使用量を減らしてゆくかという、
 建築師の絶えざる戦いにほかならない。」

 ・・ただし、それは試行錯誤の結果となった。 

 


 高さ競争・・

 サンス大聖堂の高さは、24メートル

 1150年代のサンリスやノワヨンの大聖堂は、18メートルと22メートル

 1160年代のランは、26メートル、

 すぐ後に建てられたパリは、35メートル、

 12世紀の終わりには、シャルトルの37メートル、

 その後、

 ランスが、38メートル、
 
 アミアンが、42メートル、

 ボーヴェが、48メートルに達した。

 しかし、このボーヴェが、ゴシック式の高さの限界にもなった。


 ・・また、この競争の最中、古い大聖堂がしばしば火災によって焼け落ち、
 新大聖堂の建設計画が企画された。




 資金調達・・


 王からの献金は、わずかな額にすぎなかった。

 司教が、大聖堂建設計画とともに、資金調達を行った。

 ただし、事業運営を長期にわたって行ったのは、

 「教会建設財団委員会」であり、法人格をもち、

 寄付や遺贈を受けとったり、不動産や金融資産を所有することが許された。

 ランスでは、60年間に4人の棟梁が現場を指揮したが、

 様式上の統一性は完璧に保たれた。それを可能にしたのは、「教会建設財団委員会」

 であった。

 ・・しかし、しばしば大聖堂建設の反対を訴える民衆の暴動が起こった。




<目次>
序 大聖堂とは何か
第1章 西暦一〇〇〇年以前の司教とその教会
(司教の権能
どのような建物にするか)
第2章 聖堂参事会、大聖堂の魂
(聖堂参事会の成立
神を讃える仕事
教育事業
慈善事業
参事会境内)
第3章 大聖堂の黄金時代
(一一四〇~一二八〇年)(隆盛期
聖なる思想家たち
新しい建築術
発展過程と伝播
内部空間
ファサードのメッセージ
建築作業の流れ
資金調達)
第4章 傷ついた大聖堂、再発見された大聖堂
(大義をかざす偶像破壊者たちの蛮行
ロマン主義時代の再発見
今日の大聖堂)


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大聖堂ものがたり―聖なる建築物をつくった人々 (「知の再発見」双書)

アラン・エルランド=ブランダンブルグ

訳 山田美明

監修 池上俊一

創元社

2008年刊



 大聖堂の建築ラッシュの時代・・


 1050年から1350年にいたる300年間に、

 フランスでは80の大聖堂、500の大教会堂、数万の教区教会堂が建てられた。




「建築家が下劣な人間であれば、崇高な建築物は決してできないであろう」12世紀後半の国王の言葉


 ・・当時、建築家は、深い教養を持つ知識人であり、「科学」者であり、名工でもあった。

 だが、10世紀末から11世紀初頭の時期、建築主の期待に添える専門家はいなかった。

 専門知識が一つに限られた職人には、遠大な計画を実現することができなかったため、
 
 建築主自身・・古代文化を知悉し、歴史的建造物に造詣の深い知識人でもあった
 修道士や司教、修道院長など、雇い入れる建築家を指導することになった。

 12世紀になり、建築家という職業が形成されてからは、
 修道士たちは、直接建築に携わる仕事は建築家に任せ、現場の管理に専念するようになった。
 
 この現場の管理こそ、今日のプロジェクト管理に相当するものであった、と思われる。


 
 フェルナン・ブイヨンの小説『野の石』より・・12世紀の建築家の心境を描いた。

 「私は生涯、修道士というよりは石工、キリスト教徒というよりは建築家であった。
  それは私の落ち度なのだが、修道会が私にそう仕向けたともいえる。」

  ・・さまざまの修道院の建物の建築に携わった。

 「建築家とか施工者と言う時、それは単なる名称ではなく、そこには確固とした絶対的な
  役割がある。
  形態、大きさ、重さ、耐久力、圧力、尖塔、バランス、動き、線、経費や負担金、
  湿度、乾燥、暑さや寒さ、音響、光、陰や薄明かり、感覚、土、水、空気、そして
  ありとあらゆるものが、この至高の役割のなかに、建築を行う普通の男のたった1つの
  頭のなかにあるのだ。」



 1261年、ニコラ・ド・ビアールの説教・・
 
 「大規模な建設作業に雇われる主任建築家というものは、いつも決まって口で命令するだけで、

  実際に手を出すことなどほとんどないのに、給料だけは他の者よりかなり多く受け取っています。
  
  石工の棟梁たちも、手袋をした手に鞭を持って『こういうふうに切れ』と命令するだけで、

  自分たちはほとんど働かないくせに、報酬だけはたくさん取るのです」(>_<)



 建築家の地位が、確固たるものとなるにつれ、建築主にとって由々しき事態が起こります。

 一人の建築家がいくつもの現場を掛け持ちするようになり、現場が遠い場合、欠勤が恒例化する。

 それを禁止する契約も結ばれるようになる。



 革新的な建築物を建設するには、建築家を一人呼び寄せるだけでは不十分であり、
 建築家を支援できる高い技術水準を持った職人たちも一緒に連れてくる必要があった。

 老ベルナールは、サンティアゴ=デ=コンポステーラ大聖堂の建設のため、
 50名の石工を連れて現場に入った。 



 カンタベリ大聖堂の再建にあたって、ギヨーム・ド・サンスは、フランス建築の新たな
 建設技術をイギリスに持ち込んだ。
 しかし、不幸にも建設途中、梁から落下し、重傷を負う。
 いったんは、若い一人の行動的な知性的な修道士を後任にするが、
 石工たちが猛然と反対する。
 そこで、ギヨームはベッドの上から、作業の優先順をきちんを指示し、指揮を執ることになった。




<目次>
第1章 新たな世界
第2章 建築家
第3章 表現手段
第4章 建設現場
資料編 大聖堂の建設者たち


【送料無料】構造デザインとは何か

構造デザインとは何か―構造を理解しないアーキテクトとアートを理解しないエンジニア アラン・ホルゲイト

訳 播繁

鹿島出版会

2001年刊



 ≪この本の大部分は、アーキテクトの「仕事のやり方や思想」を研究することに
  当てられている≫

 しかしながら、
 のっけから、印象的な文章があります。

≪ある人はまた、技術者同士であれば意見の相違が生じても、
 純粋に冷静で論理的な議論によって、通常、人間関係につきまとう問題から
 離れて解決できると思っている。

 このような考えをもつ人たちはいずれ突然目を覚まされる運命であり、
 そしてこのような思い違いをさせておくのはひどい仕打ちというものであろう。≫


≪構造エンジニアリングのアート(術)には、
 設計チームのの他のメンバーとよい関係を保つためのコミュニケーションのアート
 が含まれて≫いる。



≪・・仕事は人間によってなされるもので、どのような形で雇われようとも、
 同意することもできるし、あるいは反対することもできるからである。(アクロイド)≫


もう一つ、ホルゲイトさんのぼやきを紹介(>_<)

≪エンジニアと同様、アーキテクトも自分たちが総じて不当に安い給料で過度に
 働かされる職能だと見ている。
 そして、当然あるべき社会的な評価を受けていないと思っている。≫ڤ




≪構造デザインとは、可能な限り最も効率的な手段で三次元の空間に部材を配置し、
 設定された目的をなしとげるためのプロセスだといえよう。

 このプロセスを実行するには、「目的」と「効率」に対しての思想を持つ
 必要がある。≫


≪エンジニアリングは、プロジェクトの経済性を決定するために用いられる技術的な
 道具の一つであって、それ自体が独立した自己完結的な技術ではない。(アトキンス)≫


 構造形態を議論する際、荷重対耐力の機能だけに焦点をあてるのではなく、

≪建築本来の機能、経済性、美観、そして政治性でさえ考慮に入れるべきである。≫



<目次>
構造デザインのアート
設計事例の研究―シドニー・オペラハウス
計画と設計の組織
資金計画と分析
機能計画と構造
建築家、建築そして美学
アーキテクトとその仕事
エンジニアとアーキテクトの関係
建築評論とその歴史
建築史の年代順スケッチ〔ほか〕

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