FRANK MATSURA Frontier Photographer By JoAnn Roe

「フロンティアの残影」の原著・・


フロンティアの残影―日本人松浦の撮った西部 写真集 


栗原達男「フランクと呼ばれた男」

 

An appropriate text for the June 1913 funeral of the Japanese man who

lay in his casket in Okanogan, Washington, a long way from his home in Japan.

Like Joseph, the biblical lsraelite in Egypt, thiery-nine-year-old

Frank Matsura was alone in a foreign land.


No relative came to mourn him, no message of sorrow came from abroad.

The curt instructions of the Japanese consul in Tacoma had been,

"bury him where he is."

Yet Frank S. Matsura was far from friendless.

His funeral was held in the town's large auditorium because the mourners

could not crowd into the church.

More than three hundred people came to pay their respects -

both whites and Indians, the Northwest people among whom he had chosen

to make his home and seek his fortune.

He left a legacy of photographs of the Okanogan country,

taken between 1903 and 1913 - pictures of unusual quality and

historical importance that a record of life on one of

North America's last frontiers.



 100年前、フランク・マツラは、1000枚の写真を遺した。

 現代の写真家、白川義員さんは、100万枚以上・・そして、
 75歳のいまも現在進行形で撮り続けられています。

 いずれの人生にも大いに感ずるところがありますね

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フランクと呼ばれた男

栗原達男「フランクと呼ばれた男」

情報センター出版局

1993年刊


 松浦栄の祖父、松浦安右衛門の屋敷は、八丁堀にあり、
 江戸町方組(北)御当番五組に属する旗本与力であった。

 明治維新・・八丁堀の屋敷は、薩長の維新勢力に取り上げられ、
 住居は川向こうの向島へ移る。

 幕臣にとって屈辱の時代・・

 1888年、明治21年11月4日、台町教会にて、木村熊ニ牧師により、
 栄は洗礼を受ける。

 この木村牧師、過去に彰義隊の戦いに巻き込まれ、その難を脱した後、

 アメリカへ行った。

 「木村熊ニという人は、勝海舟の下で隠密同心をやっていたという話があり、
  身が危険にさらされていたのでしょう」

 その渡米指揮を出したのが、海舟であったという。

 この木村牧師より、栄は、英語と写真技術を学ぶ。


 用意周到・・その上で、

 1901年、20世紀のスタートの年に出発する。


 シアトルからオカノガンまで約500キロ、
 そのオカノガンからさらに30キロ山奥に入ったところにコンコヌーリィがある。

 標高700メートルのコンコヌーリィ。
 現在の人口は、174人だが、夏場は避暑地として観光客で10倍以上の2、3千人になる。

 フランク・マツラがこの地を訪れたのは、1903年。

 コンコヌーリィに西部開拓民の入植が始まったのは、その17年前の1886年だった。

 

 フロンティアの残影―日本人松浦の撮った西部写真集

 ・・ワシントン州の山奥、北カスケード山地・オカノガン峡谷地方の風景と人物の写、
 140枚が載っている。
 

フランクと呼ばれた男

フランクと呼ばれた男

価格:1,733円(税込、送料別)





<目次>
序章 宿命
第1章 気風
第2章 新天地
第3章決意
第4章 仕事
第5章 飛翔
結章 邂逅

フロンティアの残影

フロンティアの残影―日本人松浦の撮った西部 写真集 

ジョアン・ロー編

平凡社

1983年刊



 マツラという日本人が残したフロンティアの写真・・

 風景も、人物も味わいがあり、

 写真の下に追記されたコメントにウィットがあります。
 


 マツラとはいったい誰か?


 ジョアン・ロー氏の手により、本写真集の出たのが1983年、

 同年、テレビ朝日により、

 『グッバイ・フランク ~大西部の残光を写した日本人 F・松浦の謎~』と題し、

 風間杜夫が扮したドラマが放映される。

 このドラマに非常に感激しつつ・・はや27年(>_<)

 本棚の整理の途中、20年以上ぶりに手にとりました。

 




 いまから100年前の1903年、29歳の日本青年が、

 シアトルから300マイル離れたアメリカ北西部の小さな町、オカノガンへやってきた。

 青年の手には、カメラと板ガラスがあった。

 のちに、かの地の西部開拓の終焉の記録・・1000枚に及ぶ写真を残し、

 その人柄は町の誰からも尊敬され、愛されたという。


 
 青年の名は、フランク・S・マツラ

 本名、松浦栄・・マツウラではなく、マツラ・サカエ。

 長崎県平戸松浦藩・・マツラ党の末裔だという。

 明治6(1873)年6月27日、東京府士族松浦安とその妻ヒデの長男として
 入舟町4丁目弐番地に生まれる。

 頌栄学園で、木村熊二牧師より、洗礼を受け、また英語と写真技術を学ぶ。

 1901年、栄は、アメリカに向け出発する。

 日本人の移民ブームとは一線を画し、シアトルやタコマの日本人社会とは

 ほとんど接触がなかった様子。

 途中、アラスカ等にも立ち寄ったようですが、1903年、オカノガンに現れます。

 1904年(明治37年)、日露戦争勃発。

 『オカノガン・インディペンデント』によると、

 ≪彼は1904年軍役に服するため日本に呼び戻された。
  彼は急ぎ荷物をまとめ、友人に別れを告げ、シアトルに向かったが、
  2週間後に戻ってきた。
  みんな彼の余りに早い再渡米に驚いたが、友人たちは大歓迎した。
  友人の1人が「フランク、もう戦争に勝ってしまったのか」、
  彼はいつもの調子で、「なに、船に乗り遅れてしまったのさ」と答えた。≫

 事実は乗り遅れたわけではなく、シアトルに着いて日本行きの船に乗船する寸前、
 考えなおした、といいます。
 ≪自分はすでにアメリカ人ではないか、それなのにどうして日本に帰る必要があるのか・・≫

 最初は、ホテルに雇われ、料理人の手伝いや洗濯人夫として働きながら、
 写真を取り、深夜、台所の片隅で、川から汲んできた水で、現像した。

 その後、写真スタジオを開き、また、かの地の歴史的記録であるパノラマ写真を撮影した。
 
 『オカノガン・レコード紙』によると・・

 1904年6月17日
 ≪・・日本人写真家フランクは当地の景色を撮りまくっているが、その仕事には
  見るべきものがある≫

 1904年7月1日
 ≪・・我々はフランク・マツラ氏の手によってコンコナリーの自然を机の上で楽しむ
  ことが出来る。それはすぐれた作品である。
  フランクは我が地区の最も成功したアマチュア写真家である≫


 1907年5月、マツラと親しくなっていたウィリアム・コンプトン・ブラウン判事は、
 
 町外れの山に登り、オカノガンの町を一望できるパノラマ写真を撮る
 
 「歴史的瞬間」を体験した、という。

 また、この土地のインディアンの酋長も、マツラにだけは、自分の写真を撮らせた。


 しかし、1908年当時のオカノガンの人口密度は、1平方マイル当り1人にすぎず。
 写真スタジオが商業的に成功するのは極めて困難だった。
 
 ・・写真館の閉鎖

 ・・結核の再発

 1913年6月20日深夜、結核による咳の発作により絶命・・

 フランクの死後、彼の仕事は、ブラウン判事によって完璧に守られた。

 マツラの写真の原板は、設備が不十分なところには渡さないという判事の遺志により、

 判事の死後、10年を経た1964年になり、再発見された。
 


PS

 本書、訳は、石川好さんでした。

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