【楽天ブックスならいつでも送料無料】明治維新という過ち改訂増補版 [ 原田伊織 ]
原田伊織「明治維新という過ち 【改訂増補版】 ~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」

毎日ワンズ

2015年刊



 明治維新の敗者目線の歴史。

 

 「明治維新」がなければ、日本は西欧列強の植民地になっていた・・

 と思っていますが、このことは、薩長による明治政府以来の洗脳の結果だ、といいます。


 そもそも「明治維新」とは、昭和になってから、「昭和維新」をとなえた極右勢力によって一般化

 したもの。幕末の「御一新」の当時使われた言葉ではない。

 
 歴史に「もし」はないが、日本は「明治維新」という暴力革命を経なくても、
 
 江戸幕府によって、新しい時代を、よりソフトランディングに迎えられた、というもの。




 山縣有朋らによって神格化された「吉田松陰」ほど、「暗殺」「天誅」を主張した長州人

 はいなかった。しかし、≪その外交思想は結局、侵略を肯定する膨張主義そのものであり、

 戦前日本の歩んだ道はそのまま松陰の主張していた通りの足取りを辿った。≫

 その松陰の主張の元になったのは、水戸学。

 原田さん曰く、『大日本史』という愚書。

≪水戸の攘夷論の特徴は、誇大妄想、自己陶酔、論理性の欠如に尽きる。

 つまり、ロマンチシズムとリアリズムの区別さえできず、大言壮語しているうちに

 自己陶酔に陥っていく。≫

 この傾向は、長州軍閥にそのまま継承され、昭和陸軍が中国戦線を拡大していったことに

 つながる。



 後半は、避けられたはずの「戊辰戦争」の悲劇・・

 それは、≪世良修蔵というたった一人のふしだらな長州人の存在が、

 戊辰東北戦争の直接の原因であったことは確かである。≫

 酒や女に耽る・・淫楽に溺れることに対する、長州や薩摩の人間と

 東北の武家との間の決定的な感覚のギャップがあった。

 もし東北の武家に、「飲ませる・抱かせる・掴ませる」という「三せる」営業ができれば、

 ・・せめて彼らの所業を無視することができていれば、

 世良や長州人のお目こぼしを得ることができたかもしれない。

 しかし、潔癖な東北の武家にとって、酒色に対するいい加減さは許されないことであった。

   
 その結果、31藩が盟約し、奥羽越列藩同盟を結成。戊辰東北戦争となる。




 長州テロリズムのひどさは、言語道断・・

 しかし、悲しいかな、佐幕側にもどうしようもない裏切りがあった。


 一つは、この戊辰東北戦争を通じて、31藩中、

 唯一つ、「三春藩」のみ、一人の死者も出さなかった。

≪三春藩は嬉々として薩長の走狗となって働いた・・≫

 それを首謀したのは、≪家老の秋田主税(ちから)。奥羽の恥さらし≫

 一方、隣りの二本松藩は、盟約を守る、その一点のみで城を枕に藩ごと

 討ち死にした。

 ・・平成の大合併の際、地理的条件には妥当性があるといわれながら、

 二本松と三春の合併は実現しなかった。


 もう一つの裏切りは、秋田藩(久保田藩)の「裏崩れ」。

 「裏崩れ」とは、前線で戦っている軍や部隊があるのに、

 後方の軍や部隊が先に降伏したり、寝返ったりすること。


 後半は、筋を通して、藩まるごと討ち死にした「二本松藩」の悲劇と、

 白虎隊をはじめとする「会津藩」の惨劇・・

≪・・長州人による信じられないような非道な、残虐極まりない蛮行≫があった。

 鶴ヶ城開城後、城下に残された多数の戦死体の埋葬を、西軍は半年あまり禁止した。

 また、死体をごみのように穴に投げ入れ、「罪人塚」と呼んだ。

 長州騎兵隊のならず者による行為は、「会津に処女なし」という言葉に残る。

 ここまでひどい目にあわせた会津藩を、最果ての地「斗南藩」で、

 さらに塗炭の苦しみを味わわせる。

 ・・萩市が、会津市に姉妹都市の申し入れをした、というのもおめでたい感覚です。


 この「斗南藩」、食うや食わずの窮状の中、藩校・日新館を再興する。

 会津時代の藩校・日新館所蔵の蔵書に、新たに洋書を購入して加えたといいます。

 見事というほかありません(^^♪



≪江戸期の日本社会が旧弊のみに支配された、貧窮した農民社会であったとしたのは、

 今にして思えばそれも官軍教育のいい方であった。≫


 ・・といって、江戸幕府に任せたまま、日本が大丈夫だったのか?

 世襲だらけの旧弊に凝り固まった社会が、欧米に伍していけたとは思えないのでした(+_+)
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瀧澤中「幕末大名」失敗の研究 (PHP文庫)

2015年刊





 超日本型政治家・阿部正弘・・

≪「阿部正弘は実によく人の話を聞く男だが、自分の意見というものを

 述べたことがなかった。

 ある人が不審に思ってそれを阿部に問うと、阿部は笑って、

 『自分の意見を言って、もし失言だった場合、それを言質にとられて

  職務の失策となる。だから、人の言うことをよく聞いて、善きを用い、

  悪しきを捨てようと心がけている』と答えたという」松平春嶽『雨窓閑話稿』≫


 しかし、ペリー来航・・

≪「何もしない」ことで政治を動かす。

 「不作為の政治」の名手でもあった阿部の政治手法が、この場合には災い
 
 したというべきである。≫


≪彼らがやったのは、結局のところ人事異動による対応であって、

 組織そのものを改編するには至らなかったのである。≫



≪幕末の政治状況は、複雑である。

 しかし、そこに属した者を思想的な派閥に分けると、意外とわかりやすくなる。

 まず、幕府を助け、現在の幕藩体制を維持する、という佐幕最右翼は、

 井伊直弼。
 
 幕府は助けるが、大幅に政治体制を変える、という佐幕左派に、

 幕臣、勝海舟や土佐藩の山内容堂・・≫ら。

≪幕府とはケースバイケースで協力しながら、権力獲得を目指す攘夷右派の

 薩摩藩。

 幕府と距離を置き、必要なら幕府の手先を殺し、攘夷を実行する。

 攘夷最左翼の長州藩や水戸藩士。≫

  
 戊辰戦争直後は、佐幕左派が、攘夷右派の薩摩藩に敗れたといえる。




 徳川慶喜という問題・・

≪・・筆者は慶喜の政治的信頼感のなさ、

 言い換えれば誠実さの欠如について指摘したい。≫

≪慶喜が個人として有能であったことは間違いない。

 しかし、騙し合いの代名詞のように言われる政治の世界でも、

 「誠実さ」がない人間は絶対に大きな仕事を成し遂げられない。

 「この人についていくと、途中でハシゴを外されるのではないか」

 と思えば、誰も従わなくなるのである。≫



 西郷隆盛の南洲遺訓にも、

≪制度やしくみより、まずは人物である。

 指導者が立派であれば、制度はうまく回る。

 指導者がだめならば、いくら良い制度をつくってみたところで

 意味がない、というのである。≫




<目次>
第1章 徳川幕府が気づかなかった売国への道―井伊直弼と田中角栄(田中角栄を唸らせた、北京の宿舎
敵の敵は味方 ほか)
第2章 生き残った山内容堂、殺された坂本龍馬(「兵隊やくざ」と「ノブレス・オブリージュ(高貴なる責任)」
遠山の金さんが見つけた土佐藩江戸火消し ほか)
第3章 「真珠湾攻撃」なき戊辰戦争で失敗した、松平容保(京都守護職という「銃座」
京師の地を死に場所としよう ほか)
第4章 西郷隆盛にとっての、「島津久光」という失敗(西郷の「田舎者」発言に憤然とする久光
君主であることを忘れ、家臣であることを忘れ ほか)
第5章 水戸藩と長州藩、維新さきがけの組織疲労(組織維持のコツは「倦まずたゆまず」
指導者として最低限持たなければならない条件 ほか)

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瀧澤中「戦国大名」失敗の研究 (PHP文庫)・・本能寺の変後の織田家重臣の明暗

2014年刊




 本能寺の変後の、織田家重臣の明暗・・


 そもそも、秀吉が「人たらし」になった理由・・

≪武家としての背景がなく、独自の家来も持たず、一兵卒から叩き上げた

 秀吉の出世術の一つは、織田家の中に、自分に好意を持つ人々をつくっていく

 ことであった。≫

 秀吉は、槍働きの代わりに、「人たらし」を自然と身につけたが、

 それが政治力を高め、絶大な力となった。

 特に、さまざまな普請を通して、商人たちには、「秀吉についていると

 商売になる」と思わせ、利益供与を行うことで分厚い人脈ができた。

 
 一方、

 柴田勝家も、面倒見の悪い男ではなかったが、秀吉のような大名や土豪から、

 文化人、商人たちに及ぶ人脈はなく、結果、資金がなかった。


 もともとは信長子飼いの佐久間信盛が追放された理由は、

「(所領を増やしてやったのに)新しい家臣を雇うこともなく、

 その所領を金銀に換えるとは何事か。言語道断だ」

 という、ダメ管理職の典型のような態度にあった。



 そして、本能寺の変・・

≪もちろんどの織田家重臣も信長の死で背景を失うが、しかし自分で人脈をつくり

 政治力を蓄えてきた者とそうでない者の差が、背景を失った瞬間に出る。≫






 関ヶ原の合戦や大坂夏の陣での教訓・・

 五奉行のうちの一人、増田長盛は、関ヶ原の合戦において、

 西軍にいながら、家康に内通するも、

 戦後裏切りを認められず、幽閉され、息子の盛次が父の汚名を晴らすべく

 大阪城に入城したことを知り、自害する。

 この長盛の生き方に対して、瀧澤さん、手厳しいです。

≪増田長盛の内通行為を「生き残るため」と弁護するならば、筆者は、

 「生き残るためならば死ぬ気で戦うべきだった」と言いたい。

 命や家を護るのに命を賭けないということが、はたして戦時に可能なのか。

 増田長盛や毛利輝元を見れば、すでに出ていると言えよう。≫


 関ヶ原の合戦後、大阪城に籠城していれば、秀吉子飼いの武将は

 秀頼に刃向うことはなかったろう。

 立花宗茂は主張したが、毛利輝元以下が拒否した。

≪要は籠城の決断力の欠如と、そしてそれを指揮する指揮官の不在によって、

 これは選択されたなかったのである。

 戦わなかったがために追いつめられた例は、歴史上いくらでもある。≫


 



<目次>
第1章 武田勝頼の致命傷
第2章 足利義昭のしぶとい首
第3章 織田家臣団の有能ゆえの危険な未来
第4章 あり得なかった関ヶ原合戦の計算違い
第5章 なぜ秀頼は豊臣家を守れなかったのか
終章 政治力はいかにしてでき、いかにして失うか

河合敦「関ヶ原 敗者たちの復活戦」

グラフ社

2009年刊



 以前追っかけていた?!、立花宗茂つながりで手に取った本。

 関ヶ原の合戦後、西軍についた大名の多くは、改易・減封されますが、

いったん改易された後、復活を果たした大名が、数少ないもののいました。

 その理由を探っていますが、現代の左遷人事など不遇期の過ごし方の

参考になると思っています。


 立花宗茂の場合・・

≪力を蓄えた牢人時代≫があった、といいます。

 牢人時代の≪この間、彼は単に徳川家に御家再興を懇願するばかりではなく、

 余暇を利用して自分のスキルを、驚くべき速さで向上させていっている。

 宗茂は牢人時代に、中江新八や吉田茂武(しげたけ)から弓術の免許を受けた

 ことがわかっている。

 また、妙心寺の了堂宗歇(りょうどそうけつ)に帰依して、禅の修行にも

 励んだとされる。

 このように、心身ともに鍛え、己を磨いているのである。

 
 もともと宗茂は、丸目蔵人頭長恵(まるめくろうどのとうながよし)から

 剣術の免許を得ており、剣の達人でもあった。

 さらに後年の記録によれば、連歌や茶道、香道、蹴鞠(けまり)、狂言

 などに通じていたことも判明しており、おそらくそうしあ文芸・遊芸に

 磨きをかけたのは、この牢人時代だったと思われる。


 自暴自棄にならず、心身の鍛錬に励んだ宗茂。

 結果としてそれが彼自身の器を大きくし、将軍秀忠や家光の信頼を

 勝ち得ることになっていくのである。≫


 つまり、「武のスキル」・・宗茂自身、数々の戦いで戦功を挙げ、

 なおかつ、軍略や戦術など深い軍事知識を有していたこと。

 それに加え、「武のスキル」だけでなく、「文のスキル」である連歌や茶道、

 香道、蹴鞠(けまり)、狂言に通じていたことで、

 平時置いても重宝されたといえる。

 さらに、宗茂の性格は、裏表がなく、人に愛される性格であった。

 結果、余人を持ってかえがたい人物となった。

 ・・これが、宗茂復活の秘訣かもしれません。



【中古】 関ヶ原敗者たちの復活戦 /河合敦【著】 【中古】afb

<目次>
いぶし銀の粘り強さ築城の名手 丹羽長重
ナンバーワンに執着した猛将茶人武将 上田重安
武を捨て、風雅に生きる歌人大名 木下勝俊
十数年の努力で復活した粘り勝ちの男 岩城貞隆
旧領を上回る石高で復活した奇跡の男 新庄直頼
三天下人に抜擢されたできる交渉人 滝川雄利
コネに翻弄された水軍の一族 来島康親
己の矜持を貫く不敗の名将 立花宗茂
 早稲田から、日本橋浜町へ移動・・

 浜町の駅の真上は、浜町公園。
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 浜町公園から少し歩いた久松町交差点にファミレス「ジョナサン」があります。

 東京都中央区日本橋久松町9
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 その壁面に、賀茂真淵県居の跡のプレートがあります。
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≪古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(かものまぶち)

(1697~1769)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずままろ)

 に入門し、元文2年(1737)江戸に下り、田安宗武(たやすむねたけ)(徳川三卿の一人)

 に迎えられ、和学を講じた。

 隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、県居の翁(あがたいのおきな)と称し、

 「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。

 また歌会なども多くを開き、その作品は今に伝えられている。
 

 あがた居の茅生(ちぶ)の露原かきわけて 月見に来つる都人かも


 実際の旧跡は、この地点の北東約100mのあたりである。≫

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 この道路の奥あたりにあったようですが、
 
 この辺り一帯は、第二次大戦終戦直後の様子は・・
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 「きくの家」さんの建物に掲げれていた写真ですが、
 
 久松小学校等を除いて、一面焼野原・・もちろん県居の家が残っていたあたりも、

すべて焼き払われていました(>_<)


 ・・今度、「きくの家」さんで、和食ダイニングを食べたいと思いました。

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