齋藤孝「手抜き力」

2014年刊

ベストセラーズ




「手抜き力」とは、

 不必要な手間や時間を省くことで、物事をシンプルに、スリムにして

 作業効率をアップさせるスキルのこと。

 「ムダをそぎ落とす力」「省エネマインド」



≪手抜きが上手な人は、要領のいい人でもあります。

 要領がいい人とは、手際がよくて物事の処理能力が高い人、

 ムダなことをせず、必要なことだけをテキパキとこなす人です。≫

≪さらに要領のいい人は仕事の”目端”が利きます。≫


≪仕事における「ちょうどいい」とは、

 「今やるべきこと」に置き換えられます。≫


≪「本質」を見極める、ということは、

 それ以外は捨てるということでもあります。≫


≪「念のため過剰」「かもしれない仕事術」に陥るのは、

 ゴールをしっかりイメージできていない人です。≫




「頭の中の手抜き」、感情と思考の手抜きを徹底することで、

メンタル・ストレスから解放される。

≪仕事につながらないことはすべて「ムダなこと」と割り切る。

 だからあれこれ悩まないし、迷わない。

 メンタルの揺らぎを生むような、精神エネルギーを消耗するな

 ストレスとは無縁になれるのです。≫




仕事においても「野生感覚」を養う。

≪仕事における野生感覚とは、その場の状況に合わせて

 臨機応変に対応する姿勢であり、能力なのです。≫






<目次>
第1章 手抜き力とは何か
手抜き力とは「ムダをそぎ落とす力」/手抜き力とは「本質を捉える力」/手抜き力とは「融通を効かせる力」/手抜き力とは「ストレスを解消する力」

第2章 ポジティブ手抜き 5つの実践ルール
優先順位を再優先に決める/「念のため」と「一応」をやめる/自分の「型」を決めて落とし込む/野性の感覚で行動する/「逆算」と「段取り」の習慣をつける

第3章 ビジネスに生かす「手抜き力」

第4章 手抜き力を磨くトレーニング
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 津田沼から市川駅へ移動し、麻生珈琲店へ・・

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 夕食は、フランス料理の「ビストロ・カシェ」さんで・・
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 前菜・・
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 魚料理・・
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 肉料理・・
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 大満足でした(^o^)/
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 先週に続いて津田沼の習志野文化ホールへ、

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 津田沼ユニバーサル交響楽団の「第21回定期演奏会」を聴きに行きました。

 ANAの「クラシカル・ウェーブ」でお馴染みの「こうもり」序曲に、「未完成」、
 
 そして、「ライン」。
 
 大満足のラインナップでした。

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<曲目>
 J.シュトラウスII/喜歌劇「こうもり」序曲
 シューベルト/交響曲第7番「未完成」
  休憩
 シューマン/交響曲第3番「ライン」

  アンコール
 ヨハン・シュトラウス1世/ラデツキー行進曲 

指揮:野宮 敏明

小林秀雄「本居宣長〈下〉」(新潮文庫)





≪宣長の思想に於ける不可知論(agnosticism)と実証主義(positivism)ということが、

 宣長研究者達の間で、しきりに言われるが、言うまでもなく、

 こういう言葉が現れて来た十九世紀の西欧の思想的背景など、

 宣長には全く無縁なものだし、余程の無理をしなければ、彼の思想の説明に、

 こういう言葉を使うのはむつかしい筈である。≫


 宣長は、『古事記』から古代の人々の音声は、

 「耳に聞えたるままにて、其外に何も無ことぞ」という。

≪・・この簡明な経験は、同時に、古人の「言問ひ」は、

 これをそっくりそのまま信ずるか、全く信じないか、どちらかであるという、

 はっきりした意識であった事を忘れてはならない。≫



≪・・「古事記」の表現を寓言と解するのは、「古事記」から逃げる事だ、

 「古事記」を全然読まぬに等しいという考えを、宣長は持ち、

 これを、「古事記伝」で、実行に移した・・≫



「古事記」・・

≪その語るところは、上代の人々の、神に関する経験的事実である。

 と言ってもよい。≫



≪簡単に言って了えば、今日の学者達のように、知性だけを頼んでいては、

 決して古学の本質に到達することは出来ない、という確信なのである。≫

小林秀雄「本居宣長〈上〉」(新潮文庫)




≪宣長は、契沖から歌学に関する蒙を啓かれたのではない、

 凡そ学問とは何か。

 学者として生きる道とは何か、

 という問いが歌学になった契沖という人に、

 出会ったというところが根本なのである。≫



 この契沖以前に当時の学問の流れを作ったのは、

 中江藤樹であり、「天下第一等人間第一義之意味を御咬出」す志を持っていた。

 この藤樹によって、「独」の学脈がつくられた。

 荻生徂徠も、また独学者であった。


≪学問とは物知りに至る道ではない、

 己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、

 殆ど本能的に掴まれていたのである。≫




「あがたゐのうしの御さとし言」・・

≪学問の要は、「古言を得る」という「低き所」を固めるにある、

 これを怠って、「高い所」を求めんとしても徒事である、

 そう真淵から言われただけで、宣長が感服したわけはない。・・≫


 「松坂の一夜」・・

 真淵にとって、舜庵と名のる、松坂の名も無い医師を、

 わが最大の弟子と見抜くのに、一夜の歓語で足りたであろう。




≪「歌まなび」と「道まなび」との二つの観念の間に、宣長にとって飛躍や

 矛盾は考えられていなかった。

 「物のあはれ」を論ずる筋の通った実証家、

 「神ながらの道」を説く混乱した独断家が、宣長のうちに対立していたわけではない。≫



≪「道」とは、何処からか聞えて来る、誰のものともわからぬ、

 あらがう事の出来ぬ、真淵が聞いていた内心の声だったと言えるが、

 それはソクラテスのダイモンのように、決して命令の形をとらず、

 いつも禁止の声だったように思われる。≫



≪彼の「源氏」論は、「あはれ」とは何かではなく、

 「あはれを知る」とは何かであった・・≫


≪古学の目指すところは、宣長に言わせれば、「古言を得ること」、

 あたかも「物の味を、みづからなめて、しれるがごと」き親しい関係を、

 古言との間に取り結ぶことであった。≫


≪そっくりそのままが、古人が語りかけてくるのが直かに感じられる、

 その古人の「言語(モノイヒ)のさま」であった。≫

茂木健一郎「金持ち脳と貧乏脳」

総合法令出版

2013年刊



 茂木さん、『花子とアン』に出ていましたね(^-^;




≪金持ち脳とはお金を増やすことを考えている脳であり、

 貧乏脳とはただお金を使うことだけしか考えていない脳です。≫

≪貧乏脳は、何よりも先に自己欲求を満たすことで満足してしまう脳です。≫


≪お金がある、あるいはお金持ちであるということの一番の特権とは

 「人生の選択肢が広い」ということ≫



≪若いうちのお金は、経験という経済活動に使うべきである≫

特に、≪脳の中に残るものにお金を使う≫



≪経験値を高めるために必要なことは、自分にとってアウェーを見つける

 ということです。このアウェーを常に求め、そのためにお金が必要であれば、

 そのお金は惜しみなく使うということです。≫


≪資本の重要性の本質とは、

 「資本があるからこそ思いきり挑戦できる」ということです。≫

 資本は、「お金」だけではなく、

≪知識や経験、スキルもまた「資本」となるのです。

 有形無形の財産や人との関係性など、多くのものが「資本」として

 私たちの挑戦を支えています。≫


 貯金が10万円ある人は、10万円分の不確実性を受け入れられる。

 貯金が100万円ある人は、100万円分の不確実性を受け入れて挑戦することができる。



≪私の持論は、普段のお金は節約はしても、

 人間関係まで節約してはいけないというものです。≫

≪人とのかかわりを節約してしまうことは、その人が本来手に入れることのできるはずの

 チャンスや幸せまで削ってしまうことになります。≫
 

≪人間関係の原則は、「自分が先に与える」です。

 その仕組みに気づいた人が人生の勝ち組みになっているというわけです。≫





<目次>
第1章 誰も知らなかった脳とお金のただならぬ関係

第2章 人間の経済活動は、脳がすべて支配している

第3章 景気は脳に左右される

第4章 お金を生み出す人間関係のつくり方

第5章 お金持ちは皆、脳の使い方が上手な人である

第6章 実践! お金持ちになる脳の使い方

最終章 脳内イノベーションでお金を生み出す秘訣

原田宗典「小林秀雄先生来る」・・『ういやまぶみ』

新潮社

2008年刊




 西津軽郡のある港町が舞台の戯曲。

 「小林秀雄先生来る」・・のか?!

 最初の数ページで読むのを止めてしまいましたが(^-^;


『小林秀雄講演 第3巻―本居宣長 [新潮CD]』が、

 テープ起こしされていました。

 小林節を、文字で読み直すと、またいいですね~


≪宣長って人は、ま、学者なんで・・

 私は学者を評論で扱ったのは初めてだったんです。

 あの人は何も生涯に波乱はないんです。

 伊勢の松坂にじーッとして勉強していた人ですからね。

 あの人の波乱というのは、全部頭の中にあったんです。

 その頭の中の波乱たるや実に面白い、ドラマティックなものなんです。≫






≪宣長さんにね、『ういやまぶみ』という有名な文章があります。

 これは学問の学びようですね-方法論です。

 学問というのはこういうふうにしてやりなさい、それを書いた本です。

 そこには中々面白いことが書いてありますから、みんな研究の方法論だと

 思って引用して色々と論じています。

 ところがね、宣長さんは本当はそんなことちっとも言いたくないんですよ。

 嫌々言ってるんです。

 何故宣長さんがこれを嫌々言ったか、ということを読み落としたならば、

 この『ういやまぶみ』は読んだってしょうがないんですよ。

 『ういやまぶみ』の一番しまいに、こういう歌が書いてあります。

 <いかならんういやまぶみのあさごろもあさき裾野のしるべばかりも>

 「いかならん」、どうであろうか。

 「ういやまぶみ」、このういやまぶみという言葉はね、行者の言葉ですね。

 行者が山に登って修行するでしょ。その初めての登山です。

 「あさごろも」は麻の着物だ。その頃は古いことだからね、木綿の着物なんか

 ありゃしませんよ。みんな麻衣着て、山に登ったんだ。

 そういう麻衣の「あさ」にかけて「あさき裾野のしるべばかりも」。

 私の書いたことは本当に浅い、いやまぶみの裾野のことをちょいと書いただけなんだ。

 だけど「いかならん」、こんなことはどうであろうか、と。

 そういう歌を書いているんです。≫


 方法論以上に大切なことは、倦まずたゆまず学び続けること。


 松阪城で見た鈴屋の一室を目に浮けべながら、あの四畳半で35年間かけて

 『古事記伝』を完成させたことに思いを馳せるのでした。




佐藤正英「小林秀雄 近代日本の発見」(再発見 日本の哲学)

講談社

2008年刊




歴史の見方・・


「歴史について」『ドストエフスキイの生活』・・

「凡ては永久に過ぎ去る。

 ・・過ぎ去るものを、僕らは捕えて置こうと希った。

 ・・一度起って了ったことは、二度と取り返しがつかない。

 ・・それだからこそ、僕らは過去を惜しむのだ。

 ・・後にも先きにもただ一回かぎりという出来事が、

 どんなに深く僕らの不安定な生命に繋っているかを注意するのはいいことだ。」




≪歴史は、過去に起ったたんなる出来事ではない。

 ひとびとによって生きられた直接事実である。

 いいかえれば、ひとびとが、ただ生きるのではなく、

 よく生きようと希求したときが、歴史の端緒である。

 歴史を知るとは、生きられた直接事実を、自身の心に受け容れて、

 自身をそれを生きてみることである。≫




≪小林が『古事記伝』に出逢ったのは『古事記』を読むためであった。

 しかし、『本居宣長』におけるかぎり小林は、『古事記』を自身の眼で

 読んでいない。・・

 しかし、『古事記伝』の方法にのっとって自身が観る『古事記』の在りようと

 『古事記伝』の捉えた『古事記』の在りようとを、すり合わせる以外に、

 宣長の学問を対象的に捉える方途はないであろう。≫





<目次>
第1章 ランボオ―宿命との出逢い
第2章 ドストエフスキイ―生きる悲しみ
第3章 「故郷を失った文学」から『無常という事』―歴史の試み
第4章 『モオツァルト』からベルグソン―「たま」としての母
第5章 『本居宣長』―あやしさの伝説

高橋昌一郎「改訂版 小林秀雄の哲学」(朝日新書)

2013年刊


 

 小林秀雄さんの言葉と経歴を交えて紹介しています。
 
 本書読んでいると、長谷川泰子や坂本睦子ら女性との関係が、

私たちの日常のなかには、論理や理屈では解けない世界が厳然としてあるし、

それを前提としない思想は意味がない、ということへの確信につながったように思えてきます(^-^;



魅力的な逆説的レトリック・・

 歴史は過去を研究することではない。

「過去を現在に生き返らせるのが本当の歴史家」である。


「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」


「私達は、私達の一番よく知っているものについて、一番よく知らない」


「善とは何かを考えるより、善を得ることが大事なのである」


「戦は好戦派という様な人間が居るから起るのではない。

 人生がもともと戦だから起るのである」





小林流読書の勧め・・

「或る作家の全集を読むのは非常にいい事だ。

 研究でもしよういうのでなければ、そんな事は全く無駄事だと思われ勝ちだが、

 決してそうではない。

 読書の楽しみの源泉はいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、

 この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、

 一番手っ取り早い而も確実な方法なのである。・・

 そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々な事を試み、

 いろいろな事を考えていたかが解る。

 彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなに沢山の思想を

 犠牲にした結果、生まれたものであるかが納得できる。・・」




「様々なる意匠」・・

「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。

 彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、

 然し彼は彼以外のものにはなれなかった。

 これは驚く可き事実である。

 この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見することは出来るが、
 
 発見した真実をすべ所有する事は出来ない・・」




「Xへの手紙」・・

「この世に思想というものはない。

 人々がこれに食い入る度合だけがあるのだ。

 だからこそ、言葉と結婚しなければこの世に出る事の出来ない思想というものには、

 危機を孕んだその精髄というものが存在するのだ。」




「戦争について」・・

「歴史から、将来に腰を据えて逆に現在を見下すような態度を学ぶものは、

 歴史の最大の教訓を知らぬ者だ。

 歴史の最大の教訓は、将来に関する予見を盲信せず、現在だけに精力的な

 愛着を持った人だがまさしく歴史を創って来たという事を学ぶ処にあるのだ。」




「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」・・

「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。

 黙って処した。

 それについては今は何の後悔もしていない。

 大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、

 事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。

 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。・・

 僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。

 僕は無智だから反省なぞしない。

 利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」





<目次>
序章 小林秀雄の魅力と危険性―『文学の雑感‐質疑応答』
第1章 自意識と批評―『様々なる意匠』
第2章 逆説と実践―『Xへの手紙』
第3章 思想と実生活―『戦争について』
第4章 戦争と無常―『私の人生観』
第5章 美と常識―『美を求める心』
第6章 直観と持続―『感想』
第7章 人生と無私―『無私の精神』

子安宣邦「本居宣長」(岩波新書)

1992年刊



≪「なぜ宣長か」という問いには、すでに答えられた。

 私にとって宣長の問題とは、

 宣長が近代日本にたえず再生することにかかわるのである。

 
 とすれば私の宣長への視線は、宣長における何が、

 どのような言説がこうした再生をもたらすのかということに向けられるだろう。≫




≪宣長が『古事記』の読み方を決めた結果、

 そもそも『古事記』ははじめからそのように読まれていたかと思うほどに、

 私たちは『古事記』を容易に読むことができるようになっている。≫


 『古事記』を読むにあたって、

 漢字の正確な読み方を明らかにしようと、『漢字三音考』を表す。

 これは『宇音仮字用格』とともに、『古事記』に表記されている漢字音の正確な
 
 訓みを目的とした研究だった。

 
 その上で、

≪宣長は・・『古事記』をわが「上つ代の正実」を最善の形で具えるものとして

 見出したのであり、「皇大御国」の道はこの「正実」によって明らかに

 されねばならないとして、国学という学問の方向を定めたのである。≫




≪宣長は「神典」のテクストから読み出されるあらゆる後世的な解釈を排除することで、

 「神典のまま」なる正しい神の言説を読み出そうとした。≫





<目次>
序章 なぜ宣長か、なぜ『古事記伝』か
第1章 「始まり」の物語
第2章 『直毘霊』と「皇国」像の形成
第3章 美しき「口誦のエクリチュール」
第4章 天地の「初め」の物語
第5章 神をめぐる言説
第6章 新たな「神代の再・語り」

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