【日時指定不可】【銀行振込不可】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】絶対幸せになれるたった10の条件 小川仁志/著
小川仁志「絶対幸せになれるたった10の条件」

教育評論社

2013年刊





 アランの幸福論・・

「われわれの社会は、求めようとしない者には何一つ与えない」

「要するに、豊かになりたいと欲すれば、誰でもそうなれるのだ」

「不幸になるのは、また不満を抱くのはやさしいことだ。

 ただじっと座っていればいいのだ、

 人が楽しませてくれるのを待っている王子のように」


「上機嫌など存在しないのだ。

 気分というのは、正確にいえば、いつも悪いものなのだ。

 だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」


「人間に苦境を脱出する力があるとしたら、

 人間自身の意志の中だけだ」


「幸福になる決意をした人たちを、報酬として何か市民の月桂冠のような

 もので表彰することを提案したい」





 ラッセルの幸福論・・

「幸福な人生は、不思議なまでに、よい人生と同じである」


「必要なのは、自己否定ではなく、興味を外へ向けることである。

 そうすれば、おのずと、自然発生的に、おのれの美点の追求に

 専念している人なら意識的な自己否定によってはじめて実行できる

 ような行為が可能になるだろう」


「外界への興味は、それぞれ何かの活動をうながし、それは、

 その興味が生き生きとしているかぎり、倦怠を完全に予防してくれるのである」







 公共哲学の視点・・

 幸福を考えるに、社会が幸福でも自分が不幸だと意味がなく、

 また、自分だけが幸せでも、社会が不幸だと本当の幸福は得られない。

 だから、自分の幸福と社会の幸福とをいかにつなぐかを考える必要がある。


 理性によって人類は進歩してきた一方、

 理性は、戦争や貧困など多くの悲劇を生んだ。

 理性が目的のための道具になると、暴力を使ってもそれを達成しようということになる。

 これを避けるためには、

 ハーバーマスは「コミュニケーション的理性」を提案する。

≪つまり、目的を達成するために相手を説得しようとするのではなく、

 あくまでも開かれた態度で相手の話を聞き、共に何かをつくり上げていこうとする

 態度のことです。≫

≪議論することによってお互いに考えが変わる可能性があるということが大事なのです。

 それこそが本当のコミュニケーションだといえるでしょう。≫






<目次>
条件1 ポジティブになる―アランの幸福論
条件2 没頭する―ラッセルの幸福論
条件3 信じる―ヒルティの幸福論
条件4 楽観的になる―エピクロス派
条件5 シンプルに考える―タオの思想
条件6 ほどほどを心がける―アリストテレスの中庸
条件7 気分転換する―パスカルの幸福論
条件8 受け入れる―ショーペンハウアーの幸福論
条件9 相対化する―プロタゴラスの相対主義
条件10 社交的になる―公共哲学の視点
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成田→大連・・
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大連ファーストクラスラウンジ・・
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大連→成田・・
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・・ビジネスクラスのコーラは、コカ・コーラですが、
 エコノミークラスは、ペプシでした。

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高井尚之「日本カフェ興亡記」

日本経済新聞出版社

2009年刊






 日本におけるカフェの歴史・・


 日本へのコーヒー伝来は、1700年前後といわれる。

 当時は、江戸幕府による鎖国時代、唯一の貿易窓口だった長崎・出島に、

 オランダ人によりもたらされた。

 ただし、コーヒーは、出島で開催されるパーティなどでわずかに振る舞われる程度だった。


 日本で最初の喫茶店は、いまから約120年前の1888(明治21)年に、

 東京の下谷西黒門町(現在の台東区上野)に開店した「可否茶館(かひちゃかん)」

 といわれる。経営者は、鄭永慶(ていえいけい)という人だった。中国人のような名前だが、

 日本人で、代々、長崎の唐通詞を務めた家系だった。

 可否茶館は、「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」と考え、

 店内にはトランプやクリケット、ビリヤード、碁や将棋などの娯楽品を置き、

 国内外の新聞や書籍も揃え、化粧室やシャワー室なども備えていた。



 大正から昭和初期にかけて、カフェは飲食を提供するだけでなく

 ウェートレス(女給)のサービスを売り物にする店と、

 あくまでコーヒーや軽食を主体にした喫茶店に分かれていく。

 前者の多くの店は、のちのキャバクラ、バー、キャバレーであり、

 「特殊喫茶」として、警察の管理下に置かれるようになる。

 一方、後者は、純粋な喫茶店を示す「純喫茶」と呼ばれるようになった。



 現在のマンガ喫茶やネットカフェが提供したものは、

 日本で最初の喫茶店である否茶館」が提唱したコンセプトそのものだった。




 東京・銀座五丁目の「ロイヤルクリスタルカフェ」・・

 ドアを開けると正面には、大きな花瓶、絨毯を敷いた階段を下りると、

 豪華な内装が目を引く。壁には、ローランサンやシャガールの絵画も掲げられ、

 調度品にも高級感が漂う。

 この店の経営者は、ドトール創業者の鳥羽博道氏だった。







<目次>
第1章 手軽さのドトールvs.楽しさのスタバ
第2章 鳥羽博道氏vs.ハワード・シュルツ氏
第3章 「居心地」を提案した喫茶文化の歴史
第4章 現代型「セルフカフェ」vs.昔ながらの「喫茶店」
第5章 多様性重視の「総合型」vs.絞り込んだ「テーマ型」
第6章 カフェvs.コーヒー飲料
第7章 ドトール、スタバの「次にくる」のは?
カフェの文化史
カフェの文化史

スティーヴ・ブラッドショー

訳 海野 弘

三省堂

1984年刊






 「夢と都の静かな夜々」・・

≪ウィーンのカフェ社会派、祭りのように陽気で、自己陶酔的で、

 疲れ切っていた。・・

 「我々は、実に優雅で美しい華麗なる都会を堪能した」と、

 音楽評論家のマックス・グラフは書いている。≫

 コーヒー店で世界のあちこちの定期刊行物が広く読まれていたものの、

 ウィーンの新聞そのものは、皇帝フランツ・ヨゼフとその官僚たちは、

 オーストリア・ハンガリー二重帝国を革命からも外国の攻撃からも守るため、

 無器用にしろ効果的に検閲修正されていた。



 ウィーンのコーヒー店には、著名なユダヤ人があふれており、

 オーストリア文化はほとんどすべて彼等の手になるものではないかと、

 シュテファン・ツヴァイクは思っていた。

「カフェは社交生活の中心である。

 人々はここで用事を処理し、取引をし、最新のニュースを聞き、

 政府について語り、新しい本や芝居の批評をするのだ。

 カフェが、公開討論の場に代わっているのである」

 カフェは、常連客にとって、第二の家庭となっていた。

 ここで郵便物や洗濯物を受け取り、着替えまでできた。


「出版されたあらゆる事物について、また、どこで行われていたとしても

 あらゆる演目について学んだ。そして各々の新聞による評価を比較した。

 カフェで世界中のできごとのすべてに通じることができ、

 同時にそれについて友人たちと語り合えるということ以上に、

 オーストリアの知的機動性、国際的な方向の決定に貢献したものはないのでは

 あるまいか」


 ジグムンド・フロイトがまだ若かった1880年代、医学には門外漢の20人ほどの友人たちと、

 カフェ・クルツヴァイルなどに集っていた。

 のちにカフェの喧騒から距離をとったフロイトだったが、カフェ・ラントマンでしばしば家族と夜を過ごした。

 『嫌われる勇気』で再評価されているアルフレッド・アドラーも、

 カフェ・ツェントラルにようなカフェで、友人や弟子たちと議論を戦わした。

 つまり、黎明期の心理学や精神分析学は、ウィーンのカフェで生まれ、育った、といえる。

 学者や芸術家たちの専門的な組織がほとんどない社会において、

 カフェにおける諸学合同の社交生活が盛んになった。




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1992年刊




 パリのカフェ・・

 1672年、アルメニア人パスカルが、サン・ジェルマンに最初のカフェを出した。

 残念ながらこのカフェは成功しなったが、1689年、フランス革命に先立つ100年前、

 プロコブができる。カフェ・プロコブは、フランス啓蒙主義、アメリカ独立、

 フランス革命の時代を通して、勇名を轟かした。



 ジュール・ミシュレは『フランス史』の1719年の章を、

 「コーヒー、アメリカ」と名付け、フランスにおけるコーヒー出現がもたらした

 歴史的意義をこう述べています。

「パリは一つの巨大なカフェになった。三百軒のカフェが人々のお喋りのために

 店を開いている。他の大都市、ボルドー、ナント、リヨン、マルセーユなども同様。・・

 フランスがこれほどお喋りをしたことはかつてない。

 1789年の雄弁術とレトリックはまだなかった。まだルソーを欠いているのだ。・・

 能う限り自然発生的なほとばしる才気・・

 この火花を散らす才気の爆発について、その栄誉が部分的には時代の幸福な変動。

 新たな生活習慣を作り出し、人々の気質さえ変えてしまった大きな事実、

 すなわち、コーヒーの出現に帰されることには寸分の疑いもない・・

 その作用は-今日のようにタバコによる知力低下で弱められも中和されもしなかった

 のだから-計り知れないものであった・・」


 1789年当時のパリは、地方で仕事がないため、大都会で可能性を試みようとして

 田舎から出てきた若い知識人で溢れていた。

 彼らの多くは、郊外の小市民や労働者の家の屋根裏に住み、ルソー、ヴォルテール、

 モンテスキューなどの啓蒙思想に鼓舞され、街でもらったパンフレットの革命思想に

 熱狂していた。

 読み書きできたのはわずか20%であり、若い彼らが、80%の読み書きできない人たち

 に読み聞かせ、語りかけた。

 そして、パレ・ロワイヤルのカフェは、口伝えでニュースを集めるほかなかった時代、

 そこでは、新聞の伏せている事実さえ知ることができ、それに対するさまざまな

 コメントを聞き、自分の意見を述べることができる場だった。

 ここでの言論は、フランス革命へと結晶することになる。





<目次>
第1章 スーフィズムのコーヒー
第2章 コーヒー文明の発生的性格
第3章 コーヒー・ハウスと市民社会
第4章 黒い革命
第5章 ナポレオンと大陸封鎖
第6章 ドイツ東アフリカ植民地
第7章 現代文化とコーヒー
終章 黒い洪水

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 ロンドンのコーヒーハウスとは、どういうものであったか?


 1652年、ロンドンの一隅に一軒のコーヒーハウスが誕生した。

 いったん受け入れられたコーヒーハウスは、1683年には3000軒、

 1714年には約8000軒に達した。

 このロンドンには、新種の公的世界が出来上がりつつあった。

 市民的公共性の世界、市民社会である。


 当時の大英帝国は、7つの海をオランダと競う商業資本主義国だった。

 そのため、商人は世界各地の様々な情報に通じている必要があったが、

 情報を得ようとも、17世紀中葉、イギリスには王政府発行の新聞しかなかった。

 そんな情報は役に立たなかった。

 ホットな情報の詰まった新聞がほしい。新聞を作る場所は、コーヒーハウスだった。

 新情報を得るもう一つの手段は、手紙がある。

 しかし、1678年にできた国の郵便制度は、配達がいい加減で、まだ整っていない。
 
 もっと信頼できる郵便制度を、1680年、コーヒーハウスに依拠した

 1ペニー郵便制度ができる。コーヒーハウスに袋が掛けてあり、手紙を出したい人は

 その袋に入れる。定期的に集められ、配達される仕組みだった。


 商人が世界を渡り歩くためには、お金が必要となる。

 そのお金を工面するのに、株の売買をしたい。しかし、株式取引所がない。
 
 ジョナサン・コーヒー・ハウスでは、1697年、専門の証券仲買人を雇い入れ、

 顧客の相談に応じ、助言を与える便を図った。また、商品取引所の役割を果たした

 コーヒーハウスもあった。


 海外活動を行う船乗りや旅行者には危険が伴う。保険が必要だが、まだない。

 1688年頃、コーヒーハウスを営んでいたエドワード・ロイドが、

 顧客サービスの一環として、保険を希望している船舶をリストアップした

 『ロイズ・ニュース』を発刊する。 

 
 要するに、17世紀の後半、ないない尽くしのイギリスは、これら無いものを

 コーヒーハウスという多目的ルームを使用することによって、創り出した。

 コーヒーハウスは、新しいものの生まれるかいばおけであった。

 近代市民社会の多くの制度はここで準備された。


 さらに、コーヒーハウスは、そこに出入りする人間を近代社会向けに改造する場所でもあった。

 つまり、ロンドンのコーヒーハウスを特徴づけるもう一つの性格は、

 それが公的世論形成の場を果たしたことである。

 コーヒーは人を醒まし、理性的にし、人をお喋りにする液体でった。

 「パーラメント(議会)」は、語源的に見ると、「お喋りする場所」の意味を持つ。

 それぞれのコーヒーハウスには、オピニオン・リーダーが陣取り、顧客一同の

 利害・関心の代弁者の役割を果たしていた。

 コーヒーハウスの雰囲気の中心にあるのは、「判断を異にする人々」の自由な議論を

 可能にした。会話は、新たな時代の精神を目覚めさせた。

 セイント・ジェイムズやスミルナ・コーヒーハウスには、ウィッグ党が集い、

 オズィンダやココア・トゥリーには、トーリー党が陣取った。

 コーヒーハウスは、公衆が公権力に向かってもの申す場であり、

 私設国会の様相を帯びるようになった。

 しかし、1675年12月29日、政府はコーヒーハウスの政治的影響を排除するため、

 閉鎖を命じる。

 生活を脅かされたコーヒーハウスのオーナーは、「今後、万全を期して店内の不忠義な

 会話の予防に留意する」旨を添えた嘆願書を提出する。

 その結果、ロンドンのコーヒーハウスからは、反政府的ビラや書物が過度に出回ることがなくなった。

 でも、これ以降、大英帝国のコーヒーハウスは、以前にもまして賑わったといいます。

   




<目次>
第1章 スーフィズムのコーヒー
第2章 コーヒー文明の発生的性格
第3章 コーヒー・ハウスと市民社会
第4章 黒い革命
第5章 ナポレオンと大陸封鎖
第6章 ドイツ東アフリカ植民地
第7章 現代文化とコーヒー
終章 黒い洪水

【中古】 ヨーロッパのカフェ文化 /クラウスティーレ=ドールマン(著者),平田達治(訳者),友田和秀(訳者) 【中古】afb
ヨーロッパのカフェ文化

クラウス・ティーレ=ドールマン

訳 平田 達治、友田 和秀

2005年刊


 「ブダペスト・カフェの生活」より。


 ウィーンにコーヒーが伝わったのは17世紀終わりなのに対して、

 ブダとペストではそれより100年も前からコーヒーを飲む習慣があった。

 1900年頃、ブダペストには600軒のカフェがあった。


 このカフェの存在は、「貧乏文士のオアシスにして仕事場」でもあった。

≪ひとりの客がたった一杯のコーヒーとグラス一杯の水だけで何時間もねばっていても、

 とやかくいう者などだれもいなかったのである。

 水がなくなると、なにも言わずにすぐグラスに注いでくれるのだ。

 竹の枠には地方のや世界各国の新聞、雑誌がぶらさがっている。

 手紙を書いたりメモをとりたいと思えば、紙とペンとインクを出してくれる。≫

 多くの新聞記事や掌編小説、劇評が、ブダペストのカフェのテーブルから生まれた。

 
 「カフェ・ニューヨーク」は、1894年、宮殿のような建物の中にオープンする。

 建築家アラヨシュ・ハウスマンによって設計されたが、彼は王宮の改装も任された

 著名な建築家であり、このことは、いかにカフェが重要なものと思われていたかの証左でもある。

 「作家専用」と書かれたメニューには、わずかな金額で、パンと薄切りソーセージたっぷり、

というものだった。一階上のギャラリーには、すでに名を成した作家たちが席についていた。 

 エンドレ・アディが1908年、文学雑誌『ニュガト(西)』を育て上げた
 
 この場所は、何十年もの間、文筆家たちのたまり場となった。



 他の都市と同じく、多くのカフェが知的生活の中心となったように、

 時々の政府にしばしば不穏な動きの火元と見なされていた。

 1848年、パリの2月革命、ドイツとオーストリアの3月革命のニュースが

 ハンガリーにも届くと、「カフェ・ビルヴァックス」で、

 『立て、マジャール人よ!』と題されたベティーフィの詩が読み上げられます。

 このベティーフィの行った革命の呼びかけとともに、オーストリア支配に対するハンガリーの蜂起

 が始まります。

 しかし、この蜂起は、ロシア皇帝軍の助けを借りたハプスブルク家により鎮圧されます。

 詩人ベティーフィは戦場で死亡、国民的英雄と讃えられたコシュートは辞任、国を去り、

 リベラルなバッチャーニ伯は処刑される。

 一つのカフェから始まった劇的な出来事は悲劇的な結末を迎えたのてした。





<目次>
カフェのなかのヨーロッパ―そこに足を踏み入れるのは恥ずべきことではない
ヴェニスのカフェ・フローリアン―中国人の下で五時に
チューリヒのグランド・カフェ・オデオン―国際的な島
ウィーン・カフェの伝統―ゴールト一杯
ブダペスト・カフェの生活―官能的な思考
ベルリンのカフェ―詩人たるもの家でゆっくり詩をつくらねば…とわたしは思った
「三つのたましいを持つ街」プラハのカフェ―友よ、あそこに死後の名声がある
ローマのカフェ・グレコ―調和のとれた思想の交換
コーヒー、フランスに入る―幸運な革命
イギリスのコーヒーとコーヒーハウス―それは政治家たちを賢明にする

【中古】 ヨーロッパのカフェ文化 /クラウスティーレ=ドールマン(著者),平田達治(訳者),友田和秀(訳者) 【中古】afb
ヨーロッパのカフェ文化

クラウス・ティーレ=ドールマン

訳 平田 達治、友田 和秀

2005年刊


 オーストリアでのカフェ巡り、ブダペストのカフェ・ニューヨーク、

 プラハのカフェ・モンマルトル等、このところカフェに嵌っていることもあり、

 タイトル通り、「ヨーロッパのカフェ文化 」について知りたいと思って手に取ったもの。


 まずは、「ウィーン・カフェの伝統」より。




 15世紀、コーヒーの栽培はアラビアの特産であり、200年以上もそれが続く。

 アラビアの港町モカはコーヒー取引の中心として発展し、その名は今日にいたるまで刺激的な
 
 味わいを保証してくれる。

 コーヒーの木の実を炒ってつくる温かい飲み物を味わうことができたのは、

 はじめのうちは宗教的な集団、精神集中に役立つことを発見したイスラムの神秘家たち

 に限られていた。

 その後、ペルシャ人やトルコ人たちもこの飲み物の持つ刺激的な作用を知り、

 オリエントではコーヒーを飲ます店が作られていった。

 そして、16、17世紀になり、この「黒い水」が、ヨーロッパを席巻することとなる。



 ウィーン・カフェの伝統・・

≪ウィーンとカフェ-このふたつのイメージはことのほか密接に結び合っているので、

 ヨーロッパにおけるカフェの営みはウィーンからはじまったと思ってしまうぐらいだ。≫
 
 でも、実際には、1684年に最初のカフェが開かれたウィーンよりも、

 ヴェニス、ロンドン、パリ、ハンブルクなどの方が早くコーヒーが流行ったことがわかっている。



 ウィーンのカフェの魅力・・

≪大理石のテーブルと木の椅子、壁の鏡とシャンデリア、窓際のボックス席、

 新聞立てとビリヤード台、これらはどのカフェにも見られる調度品だ。

 座りやすい曲線を持つ椅子は、そのほとんどがぶな材でできている。・・

 鏡もまた同様にカフェを構成する重要な要素だ。・・

 自分自身をこっそり映し出し、しかも同時に自分の背後でなにがおこなわれているのか

 一目で知ることができる客を心地いい気分にもしてくれるのだ。・・≫

 ウィーンのコーヒーは、多彩な種類がある。

≪こうした選んだコーヒーには、アラブの習慣にしたがっていつもグラス一杯の水がついてくる。≫
 

 人々は、コーヒーと一緒に小さなパンのゼンメル、ウィーンナーソーセージ、トルテや

キップフェル(クロワッサン)を食べた。

 

 「ウィーンの人ならばだれもがゆきつけのカフェを持つ」

 カフェの最大の収入源は、コーヒーとビリヤードだった。

 レーフラーノ小路にあったカフェは、音楽の天才でビリヤードの名手でもあった青年に

 ちなんでのちに「カフェ・モーツァルト」と名付けられた。

 数多あるウィーンのカフェには、それぞれ毎日通ってくる常連がいました。

「カフェはわれわれにとって、いうならば住まいのかわりをしてくれるものだ」と

 カフェの常連の一人、エーゴン・エルヴィーン・キッシュは言います。

 
エレガントな「カフェ・ラントマン」には、エメリヒ・カールマン、ハンス・モーザー、マックス・ラインハルトが常連であり、

「カフェ・インペリアル」には、グスタフ・マーラー、リヒャルト・ワーグナー、ヨハネス・ブラームスらの音楽家たちが足繁く通い、

「カフェ・シュベルル」には、画家や建築家たちが集う。

「カフェ・ツァルトル」には、ローベル・ムージル、トーマス・マン、リヒャルト・タウバーら作家たちが通った、といわれています。

 
 ウィーンのカフェの中でも最も有名なものの一つ、

 「カフェ・ツェントラル」に入ると、正面右側のテーブルに一人の初老の男性の人形が

座っています。かつてここに通い詰めた詩人ペーター・アルテンベルクです。

 彼の作品『わたしの見たまま』に、カフェのことが描かれています。


 あれやこれやと悩みが尽きないなら -カフェに行くことさ!

 彼女がとにかく何かまことしやかな理由で来れないなら -カフェに行くことさ!

 ブーツがぼろぼろになったら -カフェに行くことさ!

 給料が400クローネで、支出が500クローネなら -カフェに行くことさ!

 まこと慎ましく暮らしているのに、何の得にも恵まれないなら -カフェに行くことさ!

 気の合う女が見つからないのなら -カフェに行くことさ!

 心の中はもう自殺に追い込まれているのなら -カフェに行くことさ!

 人を嫌い軽蔑しながら、それでも人がいなくちゃ困るなら -カフェに行くことさ!

 もうどうにもつけが効かなくなったなら -カフェに行くことさ!

 
 
 シュテファン・ツヴァイクは、「カフェ・ツェントラル」を訪れるたびに、

 そこで250以上の新聞や雑誌を読むことに喜びを感じていた。

 短文の名手アルフレート・ボルガーによる『<カフェ・ツェントラル>の理論』によると、

 カフェ・ツェントラルは、《ほかのカフェのようなカフェではなく、ひとつの世界観である。

 しかも世界を観ないことを真の内容とする世界観》なのである。

 《その住民たちは大部分が、人間嫌いと人間好きとの性向が同じぐらいはげしい者たちであり、

 ひとりでいたいと欲しながらもそのためには仲間を必要とするような者たちだ。

 かれらの内面は外界という、境界をつくってくれる層を必要とする。

 かれらが個々に発する不確かな声には、コーラスの支えがどうしても必要なのだ。・・

 <カフェ・ツェントラール>はつまり、解体された者たちの一種の組織なのだ・・

 ゴシップや好奇心、陰口でわきかえる、大都会の懐に抱かれた片田舎のすみかなのだ。》




 
 このカフェでは、将軍や大臣の振る舞いを俎上にあげておしゃべりするだけでなく、

皇帝の生活すらこきおろした。そのため、当局に目をつけられた。
 
≪カフェに出入りする者たちにたいするこの拒否的なコメントを見れば、どうしてこのような場所が、

 ウィーンにかぎらず、当局からしばしば疑いの目で見られ、ときおり閉店にさえ

 追い込まれたのかということがわかる。

 これらの店ではたんにコーヒーが飲まれただけではなかった。

 それだけではなくて同時に、あらゆる国民階層にわたって情報が交換され、

 ニュースが伝えられ、噂が言いふらされて、最高位にある人たちについての個人的なゴシップ、

 つまり「おしゃべり」が広められたのである。≫


 また、人々はゴシップだけでなく、世間一般の問題や個人的な問題について、

 財政や文学のこと、商売や訴訟のこと、学問や芸術のことについて語り合った、といいます。


 ウィーンのカフェに通っていたのはおもに新しい考えに理解を示すインテリ層だったので、

 カフェは警察機関から厳重に監視されることとなった。 
 
 でも、パリと異なり、ウィーンの市民は革命を望んでいなかったこともあり、

 カフェは営業し続けます。



 そんなウィーンのカフェに、一度だけ危機が訪れます。

 それは1810年のナポレオンの大陸封鎖でした。コーヒー豆が入手できなくなった結果、

 コーヒーの値段が急騰します。

 当時の様子を、あるジャーナリストの日記には、こう記しています。

≪八月一日、ウィーンのカフェではもはや一杯のコーヒーも飲むことができなくなった。

 ある雑誌にしるされたとおり、《あらゆるコーヒー飲みにとってまったくの青天の霹靂》

 だったのだ。≫

 しかし、ナポレオン一世の失脚と同時に、コーヒー禁止令は無用となり、

 たちまちカフェは再開しました。






<目次>
カフェのなかのヨーロッパ―そこに足を踏み入れるのは恥ずべきことではない
ヴェニスのカフェ・フローリアン―中国人の下で五時に
チューリヒのグランド・カフェ・オデオン―国際的な島
ウィーン・カフェの伝統―ゴールト一杯
ブダペスト・カフェの生活―官能的な思考
ベルリンのカフェ―詩人たるもの家でゆっくり詩をつくらねば…とわたしは思った
「三つのたましいを持つ街」プラハのカフェ―友よ、あそこに死後の名声がある
ローマのカフェ・グレコ―調和のとれた思想の交換
コーヒー、フランスに入る―幸運な革命
イギリスのコーヒーとコーヒーハウス―それは政治家たちを賢明にする
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 夕方、図書館に立ち寄ると、チーバ君がいました。

 子どもたちに囲まれているチーバ君に釣られて歩いていくと、

 通りの中央にステージが出来ていて、

 「千葉県立市川南高等学校吹奏楽部コンサート」がはじまるところでした。

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 2年ぶりに鑑賞することができました。

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 1.ディープ・パープル・メドレー
  ・バーン
  ・ハイウェイ・スター
  ・スモーク・オン・ザ・ウォーター
 
 2.市南戦隊ブラバンジャー2015
  ・ひょっこりひょうたん島
  ・タイムボカン
  ・ちびまる子ちゃん  

 3.ももいろクローバー / 行くぜっ! 怪盗少女

 4.あまちゃんオープニング

 5.花は咲く

 6.よさこいソーラン

 アンコール

 ・ディズニー・メドレー
 
 ・軍艦マーチ


 来週の日曜日、妙典のイオンでも聴けるようです(^^♪


モノ食う人々・・

 東北復興支援として、東北の食べ物を楽しむことができました。

 蒸し岩がき・・
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 ホタテ・・
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 ずんだ餅・・
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今朝の「NIKKEIプラス1何でもランキング」は、
 
 「帰省の味方・眺望自慢のSA・PA」として、

 東日本と西日本のランキングが紹介されています。


 個人的には、諏訪湖の景色と、由比の浜から見る富士山が、お気に入りです。


<東日本>

1.海ほたるパーキングエリア

2.諏訪湖SA

3.浜名湖SA

4.富士川SA

5.由比PA

6.有珠山SA

7.足柄SA

8.姥捨SA



<西日本>

1.淡路サービスエリア

2.めかりPA

3.与島PA

4.来島海峡SA

5.大津SA

6.宮島SA

7.由布岳PA

8.蒜山高原SA


 
 「眺望自慢の」でなければ、

 星の王子さまPAとして有名な関越の「寄居」、
 
 「鬼平犯科帳」の世界を再現した埼玉羽生PA

が、いいですね~

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